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 可能性というのは、悪魔のロジックだ。
 手術を選択することで、逆にこの子の命を縮める結果になったとき、俺は自分を許せるだろうか。
 だが何もしないで、その結果、娘が年若くして命を落としたとしたら、そのとき俺は、何もしなかった自分を責めずにいられるのか?
 それは答えの出ることのない、不毛な仮定だった。問題は、どちらを選択しても俺がその結果を知ることはないという、その一点にあった。
 手術を選択した場合、成長に合わせて検査を重ねてゆき、問題がなければおおむね七歳から九歳のあいだに施術をするのだという。手術が成功すれば、子供は特別な施設にうつされて教育を受け、いずれはセンター内で働くことになる。
 娘はその前に、五歳になった時点で俺の手元を離れて、センターに連れてゆかれる。これが男の子であれば、俺自身がそうだったように二年間の延長を申し出るすべもあるし、就学後も子供自身がそれを望むうちは、面会時間も設けられる。だが、女の子はそうはいかない。
 父親はセンターに入った娘との接触を、いっさい禁じられる。その後の消息も知らされない。
 あるいはそれは、俺にとって――男親にとって、都合のいいことだったかもしれない。
 どちらの選択をしたところで、自分のいいように考えておけばいいのだ。どうせ結果を知ることはないのだから。自分の決定が、きっと娘にとっては最善だったのだと、そう自分をごまかし続ければいい。
 そう思う一方で、そういう自分の考えを冷笑している自分がいた。本当にそうか? どちらを選んでも悔いずにいられるなどということが、果たしてあるだろうか?
 そんなふうに葛藤しながら、頭の隅では気づいていた。俺は娘を心配しているふりをして、結局のところ、自分のことしか考えていなかった。どうすれば自分の気が楽になるかという、ただその一点しか。
 長い、気詰まりな沈黙のあいだ、サーシャは身じろぎもせずに、通話の切れたディスプレイをにらみ続けていた。
 彼女がほとんど動揺していなかったことに、俺は遅れて気がついた。彼女は係官の話を聞いて怒りを見せたが、驚いたり混乱したりしているようには見えなかった。
「――最初から、知っていたのか?」
「手術のこと? ええ、知っていたわ」
 サーシャは答えて、視線だけで振り向いた。出会ったばかりのころを思い出させる、冷たい目つきで。
「君は、――どっちがいいと思う」
 その問いかけははっきり言って、逃げ以外の何でもなかった。一瞬のうちに、いくつもの感情が胸の中で錯綜した。情けなさ――羞恥――罪悪感。
「決まってるじゃない――ほかに選択肢がある?」
 固い声だった。サーシャはようやく視線を下ろして、まだ不安げにしている娘のほうを見た。
 決まっていると、口では言いながら、その視線は複雑に揺れていた。
 母親を心配してか、彼女のほうに行きたがるクローディアを自由にさせて、俺は髪をかきむしった。
 這い寄ってきた娘を抱きしめて、サーシャは顔を伏せた。髪が流れて、その表情を隠した。
「ずっと思っていたわ。どうして生きられることが保証された人間と、そうでない人間がいるのかって――だって、おかしいじゃない。どうしてそんな不平等がまかりとおるの。どうしてわたしたちだけが、こんなふうに不安な思いをしなきゃいけないの?」
 その声は、かすかに震えていた。
 手術を受けられる子供と、その選択肢さえ与えられなかったクローンの女の子たちのことを、彼女は言っていたのだろう。だが俺の耳には、違うように聞こえた。どうして女たちだけが、こんな目に遭わなくてはならないのかと。
 どうして? その答えは、わかっていた。そのほうが都合がいい人間がいるからだ。
 例の病気が月面都市に蔓延したことそのものは、誰のせいでもなかったかもしれない。もちろん防疫体制の不備だとか、医療機関の力不足だとか、責任を問えばいくらでも問えるだろう。だが、誰かが悪意を持って女たちを殺すために、わざわざ人工的にウイルスを作り出したのだなどという陰謀論は、馬鹿馬鹿しくて信じる気にもなれない。
 だがその後、二百年もの月日が経つのに、いまだに対抗策さえ掴めずにいるのは、いったいなぜだ。病気の根絶はおろか、ワクチンも対症療法もろくに目処さえ立たず、女たちをほとんどただ死ぬにまかせているのは。
 いまの医療技術では手の打ちようがないと、テキストは語る。そのやけにものわかりのいい諦観は何だ。治療法を探すために手段を選ばず、ありとあらゆる手を尽くしたといえるほどの痕跡が見当たらないのは。
「だけど――」サーシャはそこで一度、言葉を詰まらせた。それから、何かをふっきるように、彼女は囁いた。「だけど、この子だけでも助けられる可能性があるなら、わたしはそちらに賭けたい……」
 娘の小さな体を抱きしめて震える、サーシャの薄い肩を見て、ほかの娘たちはどうなるのかと係官を問い詰めた、あの瞬間の彼女の剣幕を思い出した。
 そうだ――彼女は、与えられなかったほうの人間なのだ。
 この女はどうして、迷わずにいられるのだろう。
 彼女と俺の、何がそれほど違うのだろう? 娘の行く末を、おそらく知る術がないという点においては、彼女と俺は同じ立場にいるはずだった。それだというのに、サーシャは娘のことだけを考えて、俺は自分のことばかり気にしている。
「だがそれで、もし――」
 口を開くなり、いやになるほど弱気な声が出た。「その手術をすることで、かえってこの子を、早く死なせることになったら」
 だから自然の成り行きに任せるべきだなどと、本気でそんなことを思っているわけではなかった。俺はただ、子供のようにごねているだけだった。サーシャが手術を望むと言ったから、それに反論していただけだ。どちらの選択肢を選ぶのも、怖かったから。
「私のクラスメイトが、どれだけ生きてセンターを出られたと思うの?」
 帰ってきた声は、冷え冷えとしていた。彼女の目に宿る軽蔑の色を、甘んじて受けるべきだと思った。だが、それでも俺は食い下がった。
「その手術を受けた人間は――君の周りにもいたのか」
 サーシャはわずかの間、返答に詰まったようだった。
「――ええ、いたわ。先生たちは、大抵そうだと聞いた」
 それじゃあ、と言いかけて、自分の声がひび割れていることに気がついた。口の中がひどく乾いていた。
「その人たちは、幸せそうだったのか?」
 サーシャは口をつぐんで、目を逸らした。それが答えだった。
 自分が理不尽な言いがかりをつけていることは、よくわかっていた。だが、言葉は勝手に口をついて出た。
「生きていてよかったことなんか、ひとつもなかったと、いつか君は、そう言ったな」
 サーシャの眉が、ぴくりと跳ねた。言葉を続けるために息を吸うと、肺のあたりがひりひりと痛んだ。
「いまでもそれは、変わらないのか? この子がいても――」
 卑怯な言い分だった。自分でそうわかっていたのに、どうして言葉を押さえられなかったのだろう。
 手を伸ばして、クローディアの頬を撫でながら、この子の体にメスを入れさせることに、耐えられないと思った。そんな反射的な、感情論だけの理屈で、俺はこの子から、生きられる可能性を奪おうとしていた。
「だけど――」
 サーシャが何かを言いかけて、飲み込んだ。その声は掠れて、震えていた。
 クローディアが急に、俺の袖を強くつかんだ。見れば娘の鳶色の瞳が、じっと見上げてきていた。
 まさか話の中身を理解していたわけがなかったが、それでも俺は、咎められたように感じた。
 顔を紅潮させて、不安げに――あるいは怒ったように、見上げてくる娘の、ふっくらした頬を掌で包みながら、どうにか自分を落ち着かせようとした。だがうまくいかなかった。
「悪い――時間をくれないか。もう少し冷静になってから、考えたい」
 サーシャは反論せず、白い顔でうなずいた。こんなふうに言葉の勢いだけで、感情任せに決めていい問題ではなかった。何がこの子のためなのか、もっと時間をかけて、考えるべきだった。


 それからの数日、目の前の選択から逃れるように、傍受プログラムの修正に打ち込んだ。
 最初の頃と違って、サーシャがちゃんと娘の面倒を見てくれているのはわかっていたから、適当な部屋に籠もってもよかった。実際に初日はそうしていたのだが、それが自分でもいかにも逃げ出しているように思えて、結局はリビングに端末を持ち込むことにした。
 娘の目に画面を触れさせないよう、いちいち注意を払いながら作業をするのは効率の悪いことには違いなかったが、少なくともサーシャが絵本を読んでやっている間、クローディアは大人しいものだった。
 続けて何時間も作業をするのは久しぶりだった。ふと我に返って画面から視線を外すたびに、ひどく喉が渇いて、目が痛んだ。
 何日目のことだったか、作業を一段落させて画面を閉じ、休憩のつもりでソファに体を投げ出したら、そのとたんに睡魔に引き込まれて、うっかり寝入ってしまった。
 そのままきれぎれの、何かあまりよくない夢を見ていたような気がする。とつぜん胸に衝撃を感じて、咳き込みながら目を覚ましたら、クローディアが胸の上に馬乗りになって、小さな手で俺の顔を叩いていた。どうやらソファの背もたれから飛び降りてきたらしかった。
 やめさせようとして手を伸ばすと、何が面白かったのか、クローディアは笑い声を上げて逃げ回った。娘は少し前からひとりで歩けるようになっていたが、まだ足取りが危なっかしい。捕まえて抱き上げると、娘は身をよじって、ソファの反対側に掛けていた母親のほうに手を伸ばした。
「見てたんなら止めてくれよ」
 そんなふうに苦笑して娘を渡すと、サーシャはそっけなく首をすくめて、気のない風に謝った。「楽しそうだったから」
 そのまま何となく黙り込んだ。気まずい空気になりかかったのを取り繕うように、サーシャは娘を抱いたまま調理機械の前に立って、夕食の準備をはじめた。
 俺は俺で端末を立ち上げて、プログラムの続きにもどった。話し合わなくてはならないことはわかっていたのだが、いまのままではまた口論になりそうだったし、そうなればクローディアを不安がらせるということだけははっきりしていた。


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