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 サーシャがしょっちゅう絵本だの図鑑だのを読み聞かせていたにも関わらず、クローディアは少し、言葉が遅いようだった。
 何かの拍子に声を発することはあるのだが、そこから先に進まないというか、なかなか単語にならない。アドヴァイザーは、そうしたことにはかなり個人差があるものだと言ったし、育児書のたぐいを探してみても同じようなことしか書かれていないのだが、たまに散歩に出てみれば、同じ年頃の子供を見かけるたびに、どうしても比べないではいられなかった。
 それで、クローディアが一歳をすぎたころから、俺は意識して娘に言葉を教えようとした。そのあたりにあるものを指さして、何度も名前を言って聞かせる。小さな手を取って指ささせ、同じように言ってごらんと促してみても、娘はきょとんとした顔をして、俺を見上げた。あるいは何かの新しい遊びだと思うのか、俺の手をぶんぶんと振り回して、明るい笑い声を立てた。そのようすは愛らしかったが、胸の内で焦りがくすぶるのを、自分ではどうしようもなかった。
 十五歳まで生きられる子のほうが稀だというのに、その心配をさておいて、他の子よりいくらか成長が遅いくらいのことでいちいち騒ぎ立てるのも、考えてみれば不毛なことなのかもしれなかったが、やはりどうしても気になった。
 生きられるうちは、この子にも生きる権利があると、俺はいつかサーシャにそう言った。だが、果たしてセンターの連中は、同じ考えを持っているのだろうか。
 五歳になって手元から取り上げられたとき、もしまだ言葉を話すこともできなかったら、そのあとこの子は、どうなるのだろう。
 強迫観念じみた不安が、ときおり発作的にこみ上げてくる。センターの連中にとって、大きな先天的欠陥のある子供を、生かし続ける意味はあるのだろうか。健康な女児のクローンならば、いくらでも作り出せる環境があるというのに?
 それは俺の思いつきではなかった。ネットワークの隅に埋もれがちな、センターに関する根も葉もない噂話のたぐいだ。馬鹿げたゴシップだと、笑い飛ばしてしまえばいい。頭ではわかっていた。だができなかった。
 知的障害を持って生まれた女児の「使い道」について、殺してしまうよりもなお胸の悪くなるような、いやな噂もあった。
 まさかそんなことがまかり通っているはずがないだろう――センターの係官だって人間だ。そこまで冷酷でいられるわけはない――そんなふうに考えようとする自分と、そういう自分自身に向かって、お前は人間の良心などというものを本気で信じているのかと冷笑する、もうひとりの俺がいた。


 そんな父親の心境など知るよしもないクローディアは、あいかわらずあーとかうーとか、きゃっきゃだとか、言葉にならない声ばかりをよく立てていたが、ある日の午後、言葉を口にするよりも先に、とつぜん歌い出したのだった。
 もちろん歌詞も何もなく、わずかばかり音程らしきものがあるだけの、歌というよりも短いうなり声のようなものだったのだが、それでもサーシャはすぐに、娘が歌っているのだと理解して、キッチンで離乳食の準備をしていた俺を呼びつけた。
 半信半疑で耳を傾けていれば、たしかにクローディアは、母親の真似をしようとして、歌っているのだった。前からよく歌ってきかせていたあの古い歌を、サーシャがためしに口ずさんでみせると、長すぎて覚えきれないのだろう、娘は最初のほうの短いフレーズだけを、くりかえして唸ってみせた。
 調子のはずれた歌を、妙に真剣な表情をしながら一生懸命歌っているのが、なんともいえず可笑しかった。思わず吹き出すと、クローディアは歌い止んで、ぽかんと俺の方を振り向いた。その様子が、なぜ笑うのかと言っているかのようで、ごめんごめんと、抱き上げて揺さぶると、娘の機嫌はすぐになおった。
 それから先は早かった。クローディアはじきに不完全ながら、母親の口まねをして、歌詞らしきものをつけた歌を口ずさむようになった。その少し後には、家の中にあるものや絵本のなかの動物を指さして、単語を口に出すようになった。もっとも歌詞については、間違えて覚えたり、覚えきれずに適当に知っている言葉をつなげたりするので、意味はほとんどでたらめだったのだが。
 それでも歌っている本人は、いつも真剣そうだった。その様子があまりに可愛かったものだから、その歌を片端から録音した。今度はサーシャも嫌がらなかった。


 久しぶりに係官からの通信が入ったのは、クローディアがじきに一歳半になろうかという頃だった。
 やはりはじめて見る相手だった。痩せて、生白い顔色をした係官は、話しづらい話題を切り出すタイミングを計る人間がよくそうするように、当たり障りのない世間話をいっとき口にしたあとで、落ちつきなく胸の前で指を組んだり外したりした。
『ところで今日は、ひとつ、お二人に考えていただきたい問題があるんです。その、少々申し上げにくいんですがね――娘さんのことで』
 どきりとした。俺たちが気づいていなかっただけで、娘の健康にかげりが見えはじめているのかと思ったのだ。冷静に考えてみれば、そうでないのは明らかだったのだが――男が着ていた制服は水色のもので、医官であることを示す白い服ではなかった。そんなことも頭に上らないほど、動揺していたのだろう。
 とっさに振り返ると、娘はモニタに映った知らない人間を警戒して、母親の体のかげに隠れるようにしていた。その背中を撫でるサーシャと、目が合った。蒼白な顔――
 俺たちの動揺を見透かすかのように、係官はせかせかと両手を振って、汗をぬぐうような仕草をした。『いえ、ご心配なく。娘さんの健康状態は、現在のところ良好そのものですよ――そうではなくて、これから先の話です。娘を持つ親御さん方に、考えていただいている問題があるんですよ』
 肩をすくめてみせて、係官は咳払いをした。この男は見た目どおり役目に不慣れなのか、それとも計算の上でこういう態度を取っているのだろうかと、余計なことを考えた。
『例の病気のことは、いまさら申し上げるまでもないでしょうが……』
 そんなふうに切り出した係官の説明はまどろっこしく、直截な言葉を避けようとするあまりなかなか要領を得なかったが、要約すれば、次のような内容だった。
 件のウイルスがもたらす病変については、女児の二次性徴の時期からそのリスクが急増すること。いったん発症すれば症状は急速に進行してゆき、手の施しようがなくなること。そうならないうちに早期に手術をし、投薬と併せて女性ホルモンの分泌を抑えることで、成人した後も生きられる可能性が増すこと――
 それは、初めて耳にすることだった。
 それだけを聞けば、夢のような話だ。だが、そこで説明が終わらないことはあきらかだった。そんなうまい話があるのなら、とっくにほとんどの人間がその手術を選択しているはずだろうし、それならば、女たちの死亡率が依然として高いままであることの説明がつかない。
『ただし――当然のことですがね、そういう処置をとれば、娘さんが将来、子供を持つことは望めなくなります。何より、そういった選択をしたからといって、残念ながら、百パーセント発症を防げるというわけではありません』
 わざとらしいおおげさな渋面で、係官は続けた。『それに、そのための手術そのものにも、リスクがあるんです』
 それが原因となって命を落とすケースもあるのだと、係官は言った。あるいは成長してゆくなかで、それらの処置が遠因となって、思わぬ別の障害や疾病を招くこともありうると。
 曖昧で婉曲な説明のしめくくりとして、係官はその数字を口にした。『手術を選択した場合の、十年後の生存率は、およそ七十二パーセントです』
 言葉が出てこなかった。
 俺たちに考える時間を与えようとでもいうのか、係官はそこでいったん口をつぐんで、視線を落とした。
 その数字を、どう受け取るべきなのか、とっさに感情が追いつかなかった。
 何も考えられないまま、クローディアのほうを振り向いた。サーシャの背中に張り付いて、娘は不安げなまなざしを、俺たちに交互に向けていた。その小さな丸っこい指が、サーシャの服を握りしめて皺を作っているのを、無意識にやめさせようと手を握ると、急にその体温が、胸に迫った。
 何もしなければ、娘が二十歳まで生きられる可能性はわずかなものになる。
 だが手術をすることによって、かえって寿命を縮めるかもしれないというのなら、何もしないほうが、まだましなのではないのか――少なくとも、ためらわずリスクを無視するには、七十二パーセントというその数字は、あまりにも小さすぎた。
 まともに頭が回らないまま、サーシャの横顔を見ると、彼女はモニタに映った係官のほうを凝視していた。凍り付いたような表情だった――炎のようなまなざしをしていた。
 何を言っていいかわからないまま、とにかく何か、声をかけようとした。だがそれより早く、係官が視線を上げて咳払いをした。
『どちらにしても、いますぐ決断していただきたいというような話ではないんです。手術をするにしても、何年も先の話になりますので。ですからまずは、お二人でよく話し合っていただければ』
 ひとりでせかせかと何度もうなずきながら、係官はシャツの襟元を引っ張った。『もし何かご質問があれば――』
 途中で遮って、サーシャが声を上げた。「――ほかの娘たちは、どうなるんです」
 その鋭い声音に、自分が殴られたような気がした。
 白状すれば、その瞬間まで、俺はそのことを、まったく考えていなかった。
 いや――あえてその存在について、何も考えないようにしていた。俺が考えても、どうせ何ができるわけでもないと思っていたから。
 頭では、知っていたのだ。娘が生まれる前に――いや、もっとずっと以前から、クローンについての説明は受けていた。生まれてくる子供が女の子だった場合、複数のクローンが作られる。
 人数は知らされていないが、数人か、あるいは十数人か――クローディアよりも少し月齢の下がるその女の子たちは、センター内の複数の施設に別れ別れになって、育てられているはずだった。
 母親の険しいようすに怯えたのか、クローディアが泣き出した。その体を抱き寄せて、背中をさすってやりながら、俺は言葉を探した。探して、だが、何も出てこなかった。
 いっときの沈黙のあとに、係官は視線をいったん横に逸らして、かすかにうなずいたようだった。カメラに映っていない隣で、彼の上司が何か指示を出したのかもしれない。中途半端な間の後に、係官はこちらに向き直って、口を開いた。
『手術を受けることができるのは、そちらの娘さんだけです』
 その困ったような声の底には、呆れの気配がにじんでいた。なぜ相手がそんなことを言うのかわからない――そういう戸惑い。
 反射的に、声を上げていた。
「クローンだって、俺たちの娘です」
 言い終わるころには自分でも、どの口で言うのだと思った。ついさっきまで、その存在さえ意識から閉め出していたくせに――だが、口に出してしまえば、その言葉は妙にもっともらしい響きを持って、自分自身をさえ打ちつけた。
 係官はまたちらりと横を見て、それから眉をひそめた。『ええと――その、そうした感情を持たれること自体は、無理もないことです。しかし法的には、あなたがたは、彼女たちに対して何かを決定する権利を、持たないんですよ――ご存じのことと思いますがね』
 何かの教科書を読み上げるように、そう説明して、係官は汗を拭いた。
「クローンの人権は、法で認められているはずでしょう――それとも彼女らには、庇護される権利がないと?」
 言わずもがなのことを、俺は言った。係官は急に余裕を取り戻したように、背筋を伸ばして苦笑した。それは、ひどく勘に障る表情だった。青臭いことをいう子供をたしなめる、大人の笑み――『そうして、月面の女のすべてを不妊にするわけですか?』


 怒りで目の前が白くなるような思いがしたのは、このときがはじめてのことだった。
『今日ご説明した内容については、あとで資料を送ります。まあ、ゆっくり考えてください』
 伝えるべきことは伝えたといわんばかりに、係官はそそくさと通信を切った。
 画面が暗くなっても、感情が激するあまり、しばらくのあいだ身じろぎひとつできなかった。
 言葉もなく激高しながら、その一方で、あの係官に腹を立ててもしかたがないのだと、頭の隅ではわかっていた。彼はただ、決められたとおりのことを説明しただけだ。少しばかり想像力に欠け、他人事を他人事として割り切っているというだけで。だが、頭ではそう思っても、とても冷静になれそうになかった。
 セオの顔が頭の隅をちらついた。いつか自分が吐いた言葉が、いまになって、俺自身をあざ笑った。落ち着けよ、腹を立ててもしかたがないだろう――あのとき、妻の身を案じてアドヴァイザーに腹を立てていたセオに向かって、俺はそんなふうに言ったのではなかったか――
 腕の中でクローディアが、小さく体を丸めてぐずっていた。怖いものから隠れようとして、俺の胸に顔を伏せたまま。会話の意味がわかっているとは思えなかったが、娘にこのやりとりを聞かせたくはなかったと、いまさらなことを考えた。
 震える息を吐いて、どうにか自分を落ち着かせようとした。この場で憤れば憤るほど、クローディアを怖がらせるだけだと思ったから。だがその試みは、なかなかうまくいかなかった。
 ようやく強ばった手から力を抜いて、隣を振り返ると、サーシャは押し黙ったまま、暗くなったディスプレイを、いつまでも見据えていた。炎のような、あのまなざしで。


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