8話へ   小説トップへ  10話へ


 

 二人目の子供を、俺は望んだが、サーシャは拒んだ。
 俺もあえて強く食い下がることはしなかった。どのみち妊娠によって負担を被るのは、彼女のほうだ。サーシャが嫌がるのなら、無理強いする権利は、俺にはない。
 もしものことを考えておかずにいられないのは性分だが、だからといって、もうひとりいればその子がクローディアの代わりになるとは思っていなかった。
 俺がやたらにクローディアの写真を撮りたがるのに、彼女はいやな顔をした。口に出して咎めこそしなかったが、その目は俺を責めていた。
 だけど俺は、写真が欲しかった。いつまでも持っておける、何か、形に残るものが。クローディアが無事に育ったとしても、ともに暮らせるのは、どのみちこの子が五歳になるまでなのだから。
 それでときおりサーシャの目を盗んで、幼いクローディアの写真を撮っていた。だがそれも、じきにやめてしまった。
 彼女のほうが正しかったのだと思った。写真を撮るたびに、俺は娘の持つ残り時間のことを、意識しないではいられなかった。いま撮っているこれは、いったい何のための写真なのかと。


 娘が初めて笑ったのは、生後五ヶ月近くになってからのことだ。
 サーシャの膝に抱えられて、端末に表示された絵本を眺めながら、クローディアは急に、声を上げて笑い出した。
 何がそんなに可笑しかったのだろう。サーシャが読んできかせた台詞だろうか。絵本には、子供だましの仕掛けがあったから――デフォルメされた動物のイラストが、画面上を元気よく飛び跳ねるようになっている――それが楽しかったのかもしれない。
 それまでにも、微笑めいた表情を浮かべることはあったが、はっきり声を立てて笑ったのは、そのときが最初だった。小さな両手を不器用に振り回して、クローディアは笑った。
 日に日に体重の増してきた娘の体を支えながら、サーシャはぱっとこちらを振り向いた。子供のように目を輝かせて、いまのを聞いたかというように。
 娘のことよりも、彼女が笑っていることのほうに、俺は気をとられた。とっさに言葉が出てこずに、まじまじと見つめかえしていると、サーシャは怪訝そうに眉をひそめた。
「――どうかした?」
「いや……」
 君が、そんな顔をするのを初めて見たと、正直に言いかけて、言葉を飲み込んだ。言えば、もう笑ってくれなくなるのではないかという気がしたので。それで、代わりの言葉を探した。「その本、気に入ったみたいだな」
「そうね」
 微笑して、サーシャは端末に視線を落とし、ディスプレイを指でなぞった。相変わらず痩せて骨張ったその白い手の甲――そこに青い血管の透けているのを、見るともなしに見ながら、いつかの日のことを考えた。彼女が俺の目の前から居なくなる日のことを。
 それは、確実にやってくる未来のはずなのに、こうして穏やかな午後の光の下で想像しようとしてみると、信じられないほど現実感のない話だった。
 わかっていたはずのことだろう。
 その言葉は、俺自身の声でもって、くりかえし俺を嘲笑した。いまさら何を言っているんだ。最初からわかりきっていたことだろうに。
 クローディアはおとなしく母親の膝に抱えられて、内容がわかっているとも思えないのに、絵本をじっと見つめていた。そうして、サーシャが同じ箇所をもう一度読み上げると、やはり高い笑い声を立てた。


 クローディアが体調を崩したり急に熱を出したりすることは、一度や二度ではなかったし、やがて床の上を這って動けるようになると、気をつけて見ているつもりでも、何かにぶつかってあざをこしらえるようなことが度々あった。
 そうした事態のひとつひとつに、冷静に対処するというのは、相変わらず難しかったが、それでも赤ん坊との暮らしに、俺たちは徐々に慣れていった。
 ずっと家の中だけに籠もっているのは、子供の情緒の発達を考えると望ましくないと、アドヴァイザーがやかましくいうので、数日おきに散歩に出かけた。
 そうはいっても、女子供を連れて自由に出歩ける場所というのは限られている。金も無い。行政サービスの一環で、無償で利用できる遊技施設や運動場のたぐいがないわけではなかったが、そうした場所に連れてゆくには、まだクローディアは幼すぎた。
 公園では、近所の子供らが仲良くなって転げ回っているのをよく見かけたが、月齢的なものもあるのか、クローディアはひどく人見知りをした。知らない人が通りかかるたびに緊張したようすをみせて、俺やサーシャの胸元にしがみつこうとする。ほかの子供が駆け寄ってきた日には、大声で泣き出す始末だった。
 社会性を育てるというなら、他人の存在に慣れさせるべきなのかもしれなかったが、まだあまりに小さな娘に無理強いするのも気が引けた。それでたいていは散歩を早めに切り上げて、家の中で絵本を読み聞かせてみたり、図鑑から呼び出したホログラムをリビングに投影してみたりしながら、機嫌を取ることが多かった。
 教育という観点でいうなら、ライブラリには子供の年齢別に用意された映像がいくらでもあったし、あるいはアニメーション映画のたぐいを流して見せるのでも、同じことかもしれなかった。だが同じような内容の映像を見るのでも、録音されたナレーションよりも、俺たちのどちらかが話して聞かせるほうが、クローディアは目に見えて喜んだ。親が自分に関心を向けていると感じられることが、重要なのだろう。
 幼い娘は、何を見せても興味を示した。たわいのない玩具や子ども向けの図鑑も、地球上の動物の映像や精巧につくられた月球儀の立体映像も、クローディアは同じようにぽかんと口を開けて、食い入るように見つめ、あるいはホログラムに夢中で手を伸ばした。
 実際に目にする機会など生涯望むべくもないような、地球の空を舞う鳥の姿も、月面都市のどこにでも植えられているようなありふれた街路樹に咲く花も、この子にとっては等しく未知のものなのだと思うと、何か、妙な気がした。
 小さな手で端末を熱心に指さすその様子にせかされるように、俺はしょっちゅうライブラリを漁り回るはめになった。だが、不法に入手したたぐいのデータは、画像一枚でさえ、けして娘の目には触れさせなかった。いまはまだ何も判らなくても、成長してから思いがけないことを記憶に残しているかもしれないから。かつての俺がそうだったように。
 そんな心配は、すべて杞憂なのかもしれなかったが。
 まだはっきりとした言葉はもたないながら、問いかけるようにこちらを見上げて、これは何かというように声を上げる娘に、これは虹の入り江、そのクレーターはケプラーと、いちいち指さして際限なく教えてやりながら、こんなことに何の意味があるのかという思いを、胸の隅のほうに押しやって、蓋をする。それが新しい俺の日常になった。
 ほんの赤ん坊だったはずの娘は、日増しに体重を増やし、手足を伸ばしていく。子供の成長は早い。その月日の流れが、そのままこの子の命の残りをカウントダウンしているかのように考えている自分に、俺は否が応でも気がつかされた。
 この子だけが特別なのではない、月にいるほとんどすべての女たちが、同じ不運を背負って生まれてくるのだと、そう思おうとした。それは厳然たる事実に違いなかったが、だからといって、たいした慰めにはならなかった。
 せめて手元を離れるまでは、健やかであってほしい。
 その考えは、思い浮かぶ端から裏返って、俺を殴りつけた。自分の目の届くところからいなくなったあとならば、どうなってもいいというのか? あとは自分の責任ではどうにもならないことだから?


 プログラムのほうの進展は、相変わらず止まってしまっていたが、ネットワーク上での情報収集は続けていた。それくらいなら、娘が昼寝をしている合間にでも、片手間にできたから。
 ライブラリや公共報道のように、あるていど整理分類されたデータと違って、ネットワーク上に散乱するきれぎれの情報は、その半分以上がジャンクも同然だ。それこそ八割は間引いて読んだ方がいいような憶測ばかりのゴシップや、ほとんど都市伝説めいた噂話も含めて、なるべく広範に目を通すのが以前からの習慣だった。
 そうした情報そのものが、直接何かの役に立つわけではない。ただ、その中には行政府の監視網に引っかかって、削除されるものがある。
 何が見逃されて、何が検閲を受けるのかということにこそ意味があった。まさか人力でネットワークの隅々まで監視できるわけもなかろうし、ほとんどは監視プログラムが何かの基準に乗っ取って、自動的に判別しているに違いなかったが、それでもおぼろげながら、行政府が何を問題視し、何を隠したがっているのかということくらいは、察しをつけることができる。
 いまの社会の原型が出来上がったのは、ここ二百年ばかりのことだという。たとえばいま俺たちが無償で供与を受けている衣食住や、学費のたぐいは、すべて月行政府の管理する公金でまかなわれている。その借り分は、将来、協力金の納付という形で返す。そういう、当然のように感じている世の中の仕組みというものは、あんがい歴史の浅いものだということだ。
 いまの社会形態を維持できているのは、月面が外部から閉鎖されていることや、月がまかなえる人口限界が少ないことによるのだと、歴史の教師はかつて語った。もっと大きな集団、たとえば地球上の諸国家のように、人口コントロールの困難な環境では、なかなかそのバランスを取ることができないのだと。
 バランスがとれなければ、何が起るのか?
 その答えのひとつが戦争であり、内乱だと、歴史のテキストは語る。
 俺たちの暮らすこの月面が、資源に乏しく、大きな人口を養う余裕がないがために、かえってそれが社会の安定をもたらしているのだと。
 それと同時期に生物の授業で習った、閉鎖環境に置かれた生物群の話が、ひどく印象に残っている。地球上の、他から離れた離島において、天敵のいないままに長年のあいだ暮らしてきた生物群が、たったひとつのバランスの崩壊が原因で、容易に絶滅に追い込まれたという話。
 月行政府がもっとも恐れているものは、おそらくそれだ。例のウイルスが蔓延していることで、皮肉なことに、月は地球の諸国家による干渉を免れてきた。この二百年、奇跡的に保たれてきた安定を、突き崩すかもしれないバランスの変化――外からの干渉。


   10話へ

拍手する



8話へ   小説トップへ  10話へ


inserted by FC2 system