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 月は厳密には国家ではない。
 月面において、過去にいかなる種類の独立宣言も出されたことはないし、月面のあらゆる土地は、地球上のどの国家の領有下にも置かれていない。
 このことには何百年だか前に地球上の諸国家のあいだで結ばれた条約が関係しているらしい。まだ人類が宇宙への進出をずっと未来のことと考えていた時代の名残り。
 だが法の上での取り扱いがどうであれ、月面に定住する人間が増えれば、社会を運営するための組織とルールが必要になる。法という名前ではない法、協力金と呼ばれる事実上の税、軍と呼ばれることのない防衛組織。
 月行政府と俺たちはいうが、それはあくまで俗称で、正式には月面特定居住区域都市運営機構という。国家ではないから、議会がない。機構の構成員が選挙を経て入れ替わるということもない。そこにはただ登用試験があるだけだ。
 市民の犯罪を取り締まる警察組織と、隕石や架空の外敵に備える防衛組織を、それぞれ分けて管理できるほど、月面社会に余裕はない。都市内部および上空への警戒は、その大部分がコンピュータ管理に任されていて、それらを統括しているのは、そのまま行政府内に設置された委員会だ。
 その監視の目が、具体的にどのように張り巡らされているのかは、市民には知らされない。機密情報というわけだ。大抵の文書や書籍は、ライブラリに制限を掛けた上で保存されるのが常だが、保安に関する情報は分離され、行政府内の独立したシステムに保存されているという。そこに電子的な手段で侵入するのは不可能に近い。
 では、行政府の監視網をすり抜けて何かをしたいときには、どうするか。伏せられたカードはそのままに、入手できるだけの情報から推測して、手探りで動くしかない。
 卒業セレモニーのときの一件は、苦い教訓になったが、それでも俺は、まだ諦めるつもりはなかった。あの青い星、遥かな宇宙空間にぽっかりと浮かぶ母なる惑星と、そこに暮らす人々に、どうにかしてアクセスしたかった。
 月とは比べものにならない圧倒的な人口と、おそらくはそれに支えられて、いまも発展を続けているはずの技術を持つ、豊かな星――
 とはいえ、次のチャンスは進学してからのことになる。志望は物理学部で出してあった。できれば月面でのフィールドワークが避けられないような課程を取りたかった。希望が通るかわからないが、それが駄目でも何らかの方法はあるだろう。
 カレッジに進むだけでも、行動範囲の自由度はぐっと上がる。いまはそのときに備えて、態勢を整える時期だった。
 傍受のためのプログラムは、順調に改良を重ねていた。もっとも、実際に試してみられたわけではないから、あくまで理論上の話にすぎないのだが。


 俺が機械いじりに夢中になっている間に、彼女の妊娠がわかった。
 その検査結果が届いても、彼女は少しも喜ぶ気配をみせなかった。そんなものかもしれない。母親は無条件に我が子を待ち望むなんていうのは、男の思い込み、願望に過ぎないのだろう。
 おぼろげな記憶の中の俺の母親は、子供好きだった。俺や妹のことをしょっちゅう抱きしめて、頬にキスをした。愛しているというのが母の口癖だった。だが、だからといって、彼女に同じような愛情を求めるのは、はじめから無理なことなのだろう。他人事のように、そう考えた。
 自分が父親になるという実感も、実を言えば、あまり湧かなかった。積極的に自分の子供が欲しいと思ったことさえ、一度もなかったかもしれない。
 妊娠中に彼女が服用する薬と、その副作用については、あらかじめアドヴァイザーから説明を受けていた。かなりの個人差があるという話も。それで、一応は注意を払っていたつもりだったが、見ている範囲では、異変には気がつかなかった。彼女の顔色は相変わらず悪かったけれど、それが副作用で気分が悪いためなのか、もともとのものなのかは、区別がつけがたかった。
 彼女はそれまでと変わらず、一日のほとんどを寝室に籠もって本を読んで過ごし、食事の時間が来れば出てきて、不味そうに食べ物を口に押し込んだ。妊娠中ということで追加された栄養食のチューブは、どう見ても美味そうには見えなかったが、それにも文句ひとつつけなかった。やせ我慢をしているというよりは、何もかもどうでもよさそうに見えた。
 一緒に暮し始めて何か月経っても、彼女のことが理解できる気がしなかった。だが、それでいいと思っていた。余計なことにわずらわされたくはなかった。


 セオから連絡があったのは、その頃だった。
 またのろけ話でも聞かされるのかと、いくらか気鬱な思いで通信に出ると、しばらくぶりに見る友人は、ひどい顔色をしていた。
「どうした?」
 訊ねても、セオはすぐには話し出さなかった。その様子は、普通ではなかった。青ざめた唇を、どうやら怒りに震わせながら、何度も話しかけては言葉を飲み込んだあとで、ようやく話しはじめた。
『彼女の副作用が――ひどくて』
 正直に言えば、拍子抜けした。なんだ、そんなことかとさえ思った。
 聞けばセオはどうやら、アドヴァイザーのマニュアルどおりの対応について、腹を立てているようだった。
 AIなのだから紋切り型の対応しか帰ってこないのは当たり前のことだ。たしかに、そうとわかっていても苛立つようなときはあるが、それにしても、馬鹿馬鹿しい話だった。機械を相手に、本気で腹を立てるやつがあるものか。
 だがそれは、この友人が身重の妻を、真剣に案じている証拠だとも言えた。それだけ動揺しているのだ。
 自分のほうが倒れそうな顔色をして、セオは何度も言葉を詰まらせながら、怒りを吐き出した。
 同情半分、呆れるのが半分で、俺はその話を聞いた。
 薬に副作用があることも、それが避けては通れないことも、あらかじめ説明されていたのだし、女がいつ死ぬかわかりゃしないのは、そもそも妊娠中に限ったことではない。情を移せば移しただけ、あとが辛いのは、最初からわかっていただろうに。
 それともこいつは、わかっていなかったのだろうか。そういうことを、少しも考えていなかったとでもいうのか。
 こいつはこんなに、馬鹿だっただろうかと、俺は考えた。どちらかというと、賢い部類だと思っていたが。
 いや――そうだ。セオはそういうやつだった。頭は回るが、性格的なものというか、根っこのところが単純なのだ。
 醒めているふりをしていても、誰かが困っているところに行き会えば、けして放ってはおけないし、自分の納得のいかないことには、割り切って従うということができない。必要以上に自分の女に感情移入してしまったところで、無理もなかった。
 そう思い至った瞬間、自分の心理に訪れた変化を、どう説明したものだろう。
 無性に、意地の悪い気持ちが湧きあがってきて、俺はそのことにまず自分で驚いた。だが心のもう半分では、たしかに目の前の事態を面白がってもいた。
「まあ、落ち着けよ」
 俺は何気ないふうをよそおって、友をなだめるように、苦笑した。それからいかにも同情を滲ませた口調で続けた。「はじめから、わかっていたことだろう?」
 その瞬間のセオの表情の変化こそ、見物だった。
 一瞬で血の気の失せたその白い顔を見て、ああ、人は逆上すると本当に顔の色が変わるのだなどと、そんなことを思った。
 しっかりしろよと、まるで励ますかのような言葉を投げかけながら、やけに気味が良かった。だが自分がそんなことはおくびにもださず、さも心配そうな顔をしているだろことも、自分でわかっていた。
 真っ白な顔色をしたまま、言葉もなく、友は通信を打ち切った。
 何も映さなくなった画面をぼんやりと眺めているうちに、さっきまで感じていた小気味よさが、嘘のようにすっと引いてゆくのを感じた。
 いったん冷静になれば、つまらない腹いせに喜んでいる自分がいかにもみっともなく思えた。ひどくみじめな気分だった。
 俺はいったい、何をやっているんだろう。



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