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 名ばかりの妻になった女は、ほとんど自分の部屋から出てこなかった。声をかけても返事はなく、何をしているのかと思ってのぞきにいけば、いつもつまらなさそうな顔で、何かの本を読んでいた。俺が入ってきたことに気がつくと、彼女はたいてい視線だけを上げて、嫌そうな顔をした。
 その頑なな態度は俺をうんざりさせたが、しかし、ものは考えようというものだった。俺は、時間が与えられたと考えることにした。
 なんせ、やることはいくらでもある。新しい端末の確保も、そのひとつだ。
 卒業後に新しく与えられた端末は、スクール時代に貸与されていたものよりもよほど性能がよかったが、役には立たない。支給品はどれも、ライブラリに直結しているからだ。どこに監視の目(プログラム)が光っているかわかったものではない。
 そうではなく、スタンドアロンで稼働するコンピュータが欲しかった。それから、ライブラリを経由せずにネットワークにアクセスする手段も。俺にはやりたいことがあった。
 秘密裏に地球の衛星放送を拾って、そのログを取る。
 現在の地球の状況を知りたかった。地球上の各国との国交が、事実上途絶して久しい。政府広報の、毒にも薬にもならないような中身のないニュース文面ではなく、そこに生きている人々の、現実の生活を知りたかった。
 そのためにはどうしても、安全な端末が必要だった。スクールのときに自作した小型端末も、いくつか手元に残してあったが、そちらはもう使う気にはなれない。
 思い出すと、いまでも苦い思いが腹の底にわだかまる。
 卒業セレモニーの日が、絶好の機会だった。窓越しに地球を望む大ホールに立ち入ることのできる、特別な日――分厚い特殊樹脂とはいえ、地球までたった窓一枚を隔てるだけのあの場所でなら、うまくやれば、通信波を拾えるのではないかと思った。
 もっと手っ取り早く、月行政府の管理する人工衛星に侵入する手段も考えないではなかった。だが、少なくともいまの自分の技術でそれをやるのは、とうてい無理だった。普通のコンピュータに侵入するのとはわけがちがう。
 だから特別なその一日のために、俺は長い時間をかけて準備をした。機会はこれを逃せば、ずっと先のことになると思ったから。
 何年も前からの計画だった。必要な機器は、ほとんど一から作り上げた。わからないことはライブラリで調べたが、アクセスログは残らないように注意を払ったつもりだったし、プログラムを組むにも、ジャンクから部品を抜き出して集めるにも、いちいち慎重を期したはずだった。
 それなのに、計画は漏れた。
 セレモニーの始まろうかという間際、前触れもなく教師に肩を叩かれた瞬間、全身が総毛立った。没収された受信機は、セレモニーのあとすぐに返却されたが、あの教師は中身をどの程度調べただろうか?
 ことが露見した経路は、いくつか考えられる。ライブラリへの侵入経路のどれかが問題だったのかもしれないし、もっと単純に、監視カメラのたぐいかもしれない。
 そうでなければ、密告か。
 たった一度、秘密にしたままにできず、友人の一人に計画の一部を漏らしたのは、会場に向かうトラムの中でのことだった。
 セオ――セオドア。あいつにだけ打ち明ける気になったのは、何も特別な理由があったからというわけではなかった。気が緩んでいたからというのが近いだろうか。たいしたきっかけがあったわけでもない。ただ、トラムでの移動中、たまたま向こうから話しかけてきた。強いて言うなら、それだけだ。
 長くひそかに準備をしてきたことが、ようやく実現するというので、いまにしてみれば、俺はガキっぽく胸を弾ませていたんだろう。態度に出さないように気をつけていたつもりだったが、口外する気になったというのは、やはりどうかしていたのだ。
 監視か、密告か――ひとりでいくら考えたところで答えが出るはずもなかったが、どのみち一度失敗した手段を信用する気にはならない。新しい端末が必要だった。それも、非公式に手に入るものが。


 コンピュータに関する知識は、父親から教わった――と言い切ってしまえば、嘘になるだろうか。
 少なくとも教えるという意識は父にはなかっただろうし、共に暮らしたのは七歳までだったのだから、そのときの自分が父のしていることを理解していたわけではなかった。
 ただ、父親が夢中になったときにときおり漏らす独り言や、その操作する端末のようすが、断片的に記憶に残っていた。成長するうちに、そうした切れ切れの情報のいくつかが意味を持って、俺の頭の中でつながりはじめた。それらの知識は、当然ながらたいした情報量ではなかったが、それでもひとつの方向性を、俺に与えたと思う。
 父はいわゆる、クラッカーと呼ばれる人種だった。つまり、非合法な手段でネットワークに接続し、本来はアクセスすることの許されない情報を入手する人間。
 彼が何のためにそれをしていたのかは知らない。単なる趣味だったのかもしれないし、それにしては少々熱中しすぎているように見えたから、なにか目的があったのかもしれない。
 その影響といっていいだろう。俺自身も、初等部の半ばを過ぎるころには、ネットワークから情報をあさることに関心を持ち始めた。自分のアカウントで閲覧することのできる範囲の外にも、情報の海が広がっていることを知っているのに、そこに興味を持つなといわれるほうが無理な話だった。
 だけど、その趣味を他言することはしなかった。それ自体が違法だということもあったし、なにより父親は、世間の常識に照らし合わせて、どうかしているようなところがあったから、俺は彼の影響を受けているということを、おおっぴらに語りたくなかった。
 だからその趣味は秘密のもので、誰かを誘うことはしなかったし、誰にも教えなかった。あの卒業セレモニーの日、トラムの中でセオに打ち明けるまでは。


 新しい端末は、ありあわせのジャンクを使って、ひとまず一台を組み上げた。花嫁に対する不満はさておき、一日の時間のほとんどすべてを自分の自由に使えるというのは、なかなか悪くなかった。
 作業の合間、たまに思い出して様子を見に行くと、妻はやっぱり陰気な顔をして、本を読むか、眠っているかした。
 彼女がものを食べているところを見ない、と気がついたのは、そんな生活がひと月近くも続いてからのことだ。
 作業に区切りをつけて遅い夜食を摂りながら、不意にそのことに思いあたった瞬間、まさか、と思った。顔を合わせたくないから、俺がリビングにいない時間帯を見計らって、ひとりで食事をしているだけだろうと。
 自分の思いつきを馬鹿げていると思いながらも、つい確認せずにいられなかったのは、いつ見ても彼女の顔色が悪かったからだ。
 調理機械のログを辿って見れば、最後の食事は、前日の朝のようだった。
 一日に一度か、多くともせいぜい二度、わずかばかりの量を、彼女は食べていた。体格が小さい分、食べる量も少ないのかもしれないが、それにしても限度があった。それも記録に残っているのは焼き菓子だの、砂糖菓子だのといったものが大半で、まともな食事を摂った形跡は、ここ何日もなかった。
 ぞっとして、寝室に向かった。すでに飢え死にしているのではないかという、なかば妄想のような思いつきが背筋を粟だたせたが、幸い、彼女は生きていた。振り返ったその表情は、俺が無断でドアを開けたことで、気分を害しているように見えた。
「――どうして飯を食わないんだ?」
 彼女はいぶかしげに顔を上げて、手にしていた端末を置いた。「食べているわ」
「あれで?」
「人の食事内容を監視するのが趣味なの?」
 言って、彼女は皮肉っぽく笑った。自分もどちらかといえば、皮肉屋といっていい人種ではないかと思っていたけれど、彼女のほうが上手だった。俺が返す言葉に詰まっていると、彼女はふいに目をそらして、手元の端末に視線を落とし、
「お腹があまり空かないの」
 そう気怠げに呟いた。あらためて見れば、彼女の頬はこけて、初めて見たときよりもいっそう痩せ細っていた。
「――医官にコールを、」
「必要ないわ」
 間髪入れず、彼女はそう言った。端末から顔を上げさえしなかった。その態度は頑なというよりも、面倒くさそうに見えた。
 理解しがたかった。もう会話を終えたつもりでいるらしい彼女に向かって、途方に暮れたまま呼びかけた。「死にたいのか?」
「いいえ」
 つまらなさそうに、彼女は答えた。何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
「なら、もう少しまともなものを食え」
「なぜ?」
 とっさに言葉を失った。まさかこの女は、食べなければ死ぬということが、わかっていないのだろうか?
 目頭を揉んで、深呼吸をした。口を開く前に自分を落ち着かせたかった。
「――提案だ。ルールを決めよう」
 ようやく顔を上げた彼女に向かって、なるべく平静を保とうと努力しながら言った。「食事は一緒に摂る。少なくとも日に二回」
「――意味がわからないわ」
「そうすれば、少なくとも君が生きていることが、俺にわかる。ある日いきなりひからびた君の死体に出会うなんていうのは、できれば勘弁してもらいたい」
 彼女はふっと表情を消して、いきなり黙り込んだ。何か、落ち着かない、妙な沈黙だった。俺はおかしなことを言っただろうか。
 ずいぶん時間が経ってから、彼女は無表情のまま、硬い声を出した。「なぜ、あなたの言うことに従わなくてはならないの?」
「命令してるわけじゃない。提案だと言っただろう」
 自分でもそれとわかるほどうんざりした声が出て、もう一度、深呼吸をした。「提案ついでだ。できれば、そういちいちけんか腰になるのをやめてくれないか」
 問い返すような目線を向けられて、俺は苛立ちを押し殺しながら言った。「否が応でも、しばらくは一緒に暮らさなきゃならないんだ。進んで不愉快な思いをすることもない。違うか?」
 何か、意外なことを言われたというように、彼女は目をしばたかせた。それからいっとき考えるような間のあとに、ようやくうなずいた。
「一理あるわ」
 ようやくまともに話が通じた気がした。
 だがほっとしたのもつかの間のことで、彼女は頭痛を堪えるように、顔をしかめてこめかみを揉んだ。「――もう休みたいわ。そのルールとかいうのは、明日からでいいんでしょう?」
 その言葉は、確認というよりも、出て行けという意思表示だった。部屋を出てリビングに戻りながら、ため息が出た。何なんだと思った。いったい何なんだ、この女は。
 自分の言った言葉が自分に跳ね返ってきて、気鬱が増した。否が応でもこの先数年は、このわけのわからない女と折り合ってゆかねばならないのだ。



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