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 もうじき係官が来て、彼女を連れて行ってしまうから、その前にせめて最後のお別れを。シスター・マリアはそう言った。
 だまされたような気分のまま、シスター・メリルの遺体の前に立った。
 用意された担架の上、それこそ眠っているかのように、シスター・メリルは横たわっていた。最後に顔を見てから、そう長い日数が経ったわけでもないのに、やけにやつれて見えた。唇は青ざめて、胸の上で組まされた指先が、ひどく白かった。
 シスター・メリルがこんなところで冷たくなっているのは、彼女が大人だからですかと、わたしはそんな場違いなことを、シスター・マリアに訊ねた。生徒たちの場合と違って、シスター方が死ぬときには、みなこのようにお別れをするのかと。
 これまで死んだ子たちはみな、いつの間にかどこかに連れてゆかれるのが常だった。その日が近いことを予感して、前もって別れをほのめかす子はいたけれど、本当に命の尽きる間際まで残っていた子は、イルマくらいのものだった。
 例によってぼろぼろと涙をこぼしながら、シスターは首を振った。「いいえ。彼女がそう望んだのです」
「イルマのように、連れてゆかれるのが怖くて?」
 いいえ――シスター・マリアはわたしの目を見て、はっきりと答えた。「あなたのためにです、サーシャ」
 言われていることの意味が分からなかった。口をつぐんだわたしに、シスターは何かをあきらめたような口調で、言って聞かせた。
「彼女はあなたのことを、とても心配していて……あなたが卒業するまでは、黙っていてくれと。本来であれば、わたしたちには係官に通報する義務があるのです――彼女はもっと早く、症状が進んだ時点で、しかるべき場所に移るはずでした。そのための、特別なセンターがあるのです。病による苦痛を取り除き、安らかに天の国へと向かうための……」
 苦痛を長引かせてまで、メリルはここに留まりたがったのだと、彼女は言った。
 その言葉は、わたしを責めていた。いや――シスター・マリアにそのつもりがあったかどうかは、わからない。けれど少なくともわたしの耳には、そのように聞こえた。
 ――あなたがたは、生き延びたくせに。
 すぐ耳元で、聞き覚えのある声がしたように思った。ぎょっとして、とっさにあたりを見回したけれど、その場にいたシスター方は、怪訝そうにわたしを見るばかりだった。誰にも聞こえていなかった――当たり前だ。それはわたしの胸の中で響いた声だった。記憶の中から立ち上ってきた、自分自身の言葉。
 メリルは、生き延びたのではなかった。
 例の手術――生きられるための処置の話をしたとき、メリルは、シスターの多くはという言い方をした。そこに彼女自身が含まれていないことに、愚かなことに、わたしはこのときまで気づいていなかった。
 だがそれは、当然察せられるべきことだったのだ。わたしは何を聞いていたのだろう――彼女は結婚して子供を産んだと言っていたではないか。手術はたいてい小さいころに行われるとも、それを受けた女は、子供を望めない体になるとも。
 どうしてそのことに一瞬たりとも思いがいたらなかったのか、自分で自分が信じられなかった。態度にせよ、体格にせよ、その若さにせよ、シスター・メリルはほかのシスターたちとは違っていた。その意味を、わたしはこのときまで考えたことがなかった。
 シスターなのだから、向こう側の人間なのだから――大人になるまで生き延びたのだから、もう彼女は死の恐怖とは無縁なのだと、わけもなく、そう、なんの根拠もなく、ただ思い込んでいた。
 なぜあのとき、メリルは言ってくれなかったのだろう? わたしの思い違いを正そうとしなかったのだろう。
「――大人はいつも、嘘と、隠し事ばっかり」
 とっさにそんな言葉が口からこぼれた。
 それは、いま目の前で冷たくなって横たわっているメリル自身が口にした台詞でもあった。
 わたしの動揺をどう受け取ったのか、シスター・マリアが、沈んだ表情でうなずいた。「ええ、そうです」
 シスターは涙を拭きながら、震える声で続けた。「わたしたちは、いくつも嘘を吐いてきました。嘘は悪いことだと、あなたがたに教える一方で……そのことについては、いつだって、申し訳なく思っています。だけど、それはあなた方のためを思っての、せめてもの――」
「――誰がそんなことを、一度でも望んだというの?」
 自分で思っていたほどには、強い口調にはならなかった。それでもその場は、しんと静まりかえった。泣き濡れたシスター方が、皆、わたしのほうを見ていた。その顔という顔の上にあったのは、非難や叱責の色ではなかった。彼女たちは傷ついていた。
 目の前で死んでいるメリルが、起き出してきて、前のようにわたしを叱りつけるのではないか。そんなことを考えている自分に気がついた。何という愚かな期待!
 死者は帰らない。シスター方はあれだけたくさんの嘘をついてきたというのに、皮肉なことに、それだけは真実だった。
 天の国へと旅だった者と話すことは、誰にもできない。

 

 メリルの遺体は搬送されていった。係官は、小さな声で形ばかり、シスター方をねぎらうようなことを言ったけれど、それきり口をきかず、淡々と彼女の遺体を布のようなもので包んで、搬送用の機械に積み込んだ。
「サーシャ。あなたを待っている人がいます」
 シスター・マリアからあらためてそう言われたとき、わたしにはもう、逆らう気力は残っていなかった。
 言われるがままに栄養食のチューブを啜り、眠った。あいかわらず眠りは浅かった。それだというのに、目が覚めるたびにわたしは混乱した。この数日に起こったことが、何もかも嘘のように思えた。
 本当にそうだったらよかったのに。
 三日後の朝、着替えてわずかな私物をまとめた。そのあいだ、一言も口をきかなかった。指示を出すシスター・マリアも、もうよけいなことは何一つ言おうとせず、必要最低限のことを、淡々と説明した。ただ、最後にトラムに乗り込む直前になって、
「サーシャ、あなたはわたくしの授業は嫌っていても、本を読むことは好きでしたね」
 そんなことを言い出した。
 いぶかしく視線を上げると、シスター・マリアはいまにも泣き出しそうな顔をしていた。口をきくのがおっくうで、視線で問いかけると、シスターは掠れた声で言った。
「あなたが、よい文学との出会いに、恵まれますように」
「なぜ――」
 言いかけて、咳き込んだ。ひさしぶりに声を出すような気がした。「なぜいまさら、そんなことを?」
「それがあなたの、救いになるかもしれないと、そう思うからです。できることならば、たくさんの豊かな物語に触れてほしいと……」
 定刻になって、トラムの自動扉が閉じ、シスター・マリアの言葉は途中で遮られた。樹脂の窓の向こう、文学教師は祈りのしぐさをして、小さく微笑んだ。
 なぜ彼女がそんなことを言い出したのか、理解できなかった。
 いつかメリルの口から、同じような言葉を聞いたと思った。彼女はわたしに歌について学べといい、それがわたしの救いになると思うからだと言った。
 彼女たちの言葉は、耳にしたその瞬間には、ひどく空疎にしか響かなかった。けれど、どういうわけか後になって、ことあるごとに耳の奥によみがえった。繰り返し――繰り返し。


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