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 翌朝、どうしても部屋を出る気になれなくて、閉じこもっていた。
 寮の廊下を人の気配が通り過ぎていくのを聞きながら、ベッドの中で丸まっていた。足音がしなくなったころ、朝食の時間がとっくに過ぎていることに気づいたけれど、どのみち食欲はなかった。
 必須のはずの授業をひとつ、無視したことに気がついたのも、その時間がとっくに終わったあとのことだった。珍しいことに、誰も連れ出しにやってこなかった。いつもなら、どこにいてもシスターの誰かがやってくるはずなのに。
 その謎の答えは、昼食時を過ぎたころに向こうからやってきた。
「サーシャ。起きてる? 食事を抜くのはよくないよ」
 ドアの向こうからそう声をかけられたとき、わたしは気まずい思いをもてあました。シスター・メリルの声だった。昨日の今日で、よくもまあ、何事もなかったような声を出せるものだ。
「――夕食には出ます」
「ここを開けてくれれば、いいもの持ってきたんだけどな。一緒にお茶にしないかい?」
 いたずらっぽい含み笑いで、シスター・メリルは言った。子供扱いにむっとしなかったわけではないし、食べ物につられたと思うのは癪だったけれど、昨夜の引け目が勝って、わたしは渋々ドアを開けた。
 甘いにおいの焼き菓子を持って、メリルはそこに立っていた。私室でものを食べることも、決まった時間以外に間食を取ることも、もちろん規則で禁じられていた。こっそり食べ物を持ち込む者はいくらでもいるけれど、少なくともシスター自ら堂々と違反を奨励するなんていうのは、彼女くらいのものだっただろう。わたしの呆れ顔など意にも介さず、メリルはまるで秘密を共有する悪童のように笑った。
「ここは食事がまずいね。健康管理を徹底するのもいいけれど、やっぱり食には楽しみがないと」
 そう言いながらわたしの部屋に上がり込んだメリルは、さりげない口調で付け足した。「補講は明日の夕方だよ」
 誰も呼び立てにこなかったのは、彼女が口をきいたからに違いなかった。わたしは黙ってうなずいた。
「焼きたてだよ。暖かいうちに食べよう」
 返事も待たずに自分の分を口に放り込んで、シスターは頬をほころばせた。まるきり子供みたいな顔だった。
 促されて、焼き菓子をつまんだ。食欲がないと思っていたけれど、食べ始めると胃が動いた。口の中で溶けた菓子は、においから想像したよりもずっと甘かった。
 手回しのいいことに、メリルは飲み物まで持ち込んでいた。マグを抱えて、まだ温かいお茶を舐めるように飲むと、ほろ苦い味が口のなかに広がって、後味を流した。
 おいしいと、そう感じた瞬間、鈍い痛みが胸に走った。それは罪悪感だった。あの子は死んでしまって、もうお菓子を食べることはない。わたしは生きている。
 シスター・メリルが何か言いたげな表情をしたので、それを遮るために、興味もなかった話をつないだ。「――ここは、って、前にいたセンターでは違ったんですか」
「いや、似たり寄ったりさ。じゃなくて、家族といたころにね。妊娠中だけはうるさいこと言われたけど、あとはたいてい好きなものが食べられた。――あんたはセンター育ちだから、そんな暮らし、経験したことないだろ。結婚する楽しみがひとつ増えたね」
「楽しみなんて」
 吐き捨てるように言うと、メリルは困ったように笑って、鼻を掻いた。
「シスター・マリアなんかは、自己管理が大事とか、道徳がどうとか、小難しいことばっかりいうけどさ。わたしに言わせりゃ、生きているうちにせいぜい何でも楽しんだほうが勝ちだよ。好きな食べ物を味わって、好きな歌でも歌ってさ」
 その言いぐさに、腹が立たなかったわけではない。だけど、昨日の続きをやらかす気力はなかった。代わりにせめてもの皮肉を込めて、わたしは囁いた。「天の国には、おいしいものがたくさんあるんじゃなかったんですか?」
「あんた、天の国を信じているの? 意外だったね」
 メリルは本当に意外そうに、そう言った。予想外の切り返しに、わたしは目をしばたいた。
「シスターは、信じていないんですか」
「さあ、どうかな。昔は信じていたような気がするけど……」
 言いながら、メリルは首をかしげて、何かを思い出そうとするように、遠くに視線を投げた。
「うん――そうだね。あんたくらいの年のころには、神様が見守ってくださっていて、人は死んだら天の国にゆくのだと思ってた。――いまでも、信じられるなら、信じていたほうがいいと、そう思いはするんだよ。そのほうが楽になれるのなら」そこで言葉を切って、シスター・メリルは苦笑した。「でも、あんたはそうじゃないよね」
 まるで、それが不幸なことであるかのように、シスターは言った。
 シスター・メリルは最後の菓子を口の中に放り込んで、小さく笑った。それまでの快活な笑顔とは違う、どこか苦いような、皮肉っぽい笑い方だった。それから急に、真顔になって、
「だけどね、サーシャ。神様が必要な人もいるんだ。そこだけは、わかっていたほうがいい。あんたの目には、馬鹿馬鹿しく見えるかもしれなくても。神様にすがっていなけりゃ、つらくてとても生きていかれないような人も、いるんだよ……」
 わたしはうなずかなかった。言葉が無意識に、口をついて出た。
「神様がお決めになったのでないなら、なぜ生き延びられる人と、そうでない人がいるんです。シスター方と、ほかの子たちは、何が違うんです」
 口にしておきながら、自分がひどく馬鹿げたことを言っている気がした。これではまるで、わたしが神様の存在を、信じたがっていたみたいじゃないか――
 長い沈黙があった。
 急に黙ってしまったメリルをいぶかしく思って、わたしは顔を上げた。「シスター・メリル?」
 ああ――ため息のような返答があった。
「――黙っているのも不正直だと思うから、本当のことを言うよ、サーシャ」
 彼女らしくない、歯切れの悪い言い方だった。手の中のお茶が、いつの間にかすっかり冷たくなっていたことに気がついた。もう香りも何も飛んで、飲む気にはなれなかった。同じことに気がついたのだろう、メリルはわたしの手からカップを取り上げて、作り付けのテーブルの上に置いた。それからやっと、顔を上げて、わたしの顔を見た。
「シスターたちのほとんどは、小さいころに、そういう処置を受けているんだよ」
 一瞬、耳から入ってきた言葉の意味がわからなかった。
 あんたたちの中に、やけに早くからいなくなった子がいただろうと、シスターは言った。真っ先にエリの顔が浮かんだ。その記憶のなかの顔が、いまのアマーリアの顔と半ば混じっておぼろげになっているのに気づいて、わたしはショックを受けた。
 わたしの動揺には気づかないようすで、メリルは低い声で囁いた。
「あれはたいてい、そういうことなんだ。全員が全員ではないけれど――別の理由で、特別な施設に移る子もいるらしいから。とにかく、それに選ばれた子は、うんと小さいうちに、手術をする。そうしたら、死なないとはいわないけれど、ずいぶん死ににくい体になるんだって」
 その言葉をきちんと自分の中で咀嚼するのには、時間が必要だった。とっさに理解できたのは、そう――
「じゃあ、エリは? いまも生きているの? シスターになって?」
 自分の口からこぼれたのは、すがりつくような声だった。だけどメリルは静かに首を振った。
「――わたしには、わからないよ。その子がそのために連れて行かれたのかどうか、確証はないし、わたしたちにも、そういうことを調べることは、できないんだ」
 メリルは目を伏せた。わたしはショックを受けて、唇を引き結んだ。どう考えていいかわからなかった。エリが生きている可能性を喜んでいいのか――手紙の返事が来なかったということは、それはないということなのか。それとも規則だか何だかのせいで、連絡が禁じられているだけなのか。どうして他の子も、同じように生きる可能性を与えられないのか。
「その手術を受けられる人と、そうでない人を、誰が決めるんです」
 とっさに尖った声が出た。
 シスター・メリルは皮肉っぽく笑って、さっきまでの話と矛盾することを言った。「天の神様が」
「――神様なんて、いないんでしょう」
「そうだね」
「じゃあ、なんでそんなこと言うんです」
「自分の意思ではないということさ」
 言って、メリルは笑みを消した。「もちろん、その子を受け持つシスターの決定でもない。最初から決まっていて、わたしたちはそれをあとで知らされる。わたしが知っているのは、その手術を受けたら、もう子供を産むことはできなくなるってことと、手術をしても必ず生きられるわけじゃなくて、その手術のせいで死んでしまう子もいるらしいっていうことだけだ」
 誰も、自分から望んでその手術を受けたわけではないんだよと、メリルは繰り返した。それはわたしの耳には、言い訳にしか聞こえなかった。のうのうと自分が生きていることを正当化するための言葉としか。はじめから、選ばれた人たち――
 そういうことか、と思った。シスター方の態度の多くが、腑に落ちたように思えた。そういうことなら、さぞ生徒たちを哀れみの目で見たくもなるだろう。
 幼い頃、シスターたちは、自分たちとは別の生き物のようだと思っていた。メリルの言葉がその感覚を裏付けた。
 彼女らは、ほんとうに別の生き物なのだ。


 アマーリア=ルーにその話を打ち明けようと思ったのは、どうしてだっただろう。
 初等部のときを最後に、わたしは人に関わることをやめたはずだった。彼女のこともずっと、できるだけ意識しないように努めてきた。
 それだというのに、わたしは彼女を呼び出した。おかしな話なのだけれど、そのときは、そうせずにいられなかった。
 授業中の、寮のロビー。イルマが息を引き取ったのと同じベンチに、わたしはアマーリアを呼び出した。ほかの生徒のいないところで話をしたかったし、そのためにはここがいちばん好都合だった。
 例の事件以来、ますますここからは人の足が遠のいていた。みな教室との行き帰りに足早に通り過ぎるばかりで、自由時間にさえ、この場所で話し込む生徒はほとんどいない。
 アマーリアはなぜ、律儀にやってきたのだろう。入学直後、誰かの落とし物を手に話しかけてきたあのとき以来、わたしたちはほとんど言葉を交わしたことさえなかったはずなのに。
 わたしはほかの子に対してそうする以上に、あからさまに彼女を避けていたし、彼女もそれを察しているようだった。だのに、彼女はすぐにやってきた。単純に彼女がお人好しだということなのか、あるいは授業に嫌気がさしていたのかもしれないけれど……
「どうかしたの? なんだか顔色が悪いわ」
 姿を見せるなり、そんなふうに顔をのぞき込んできたアマーリアに、わたしはすべてを打ち明けた。
 七つのときに居なくなったエリのこと。返事の帰ってこなかった手紙のこと。メリルから聞いた話。死にたくないと叫んだイルマのこと。
 順序よく冷静に話すことなどできなかった。口から飛び出す言葉は、自分でそうとわかるほど混乱していた。
 アマーリアはわたしの隣に、寄り添うように座って、ときおり相づちを挟むほかは、ただ黙ってその話を聞いていた。苛立つ様子もなく、かといって、同調するでもなく。彼女の態度があまりにも穏やかで、平然としていたことが、わたしを打ちのめした。
「どうして、あなたは、あなたたちは、平気でいられるの――」
 話の終わりに、わたしはアマーリアにそう言った。ほとんどくってかかるような調子だった。「あなたは死ぬのが怖くはないの?」
 アマーリアはすぐには答えず、黙ったまま、小さく首をかしげた。そのしぐさは言葉を探しているというよりも、自分の胸の内をのぞき込もうとしているように、わたしの目にはうつった。
 いっときして、彼女はようやく、ぽつりと答えた。「――どうかしら。あんまり考えないようにしているもの」
 わたしは彼女に、どんな返事を期待していたのだろう? どうして、あのときのアマーリアの態度に、あんなにショックを受けたのだろう。
「サーシャ、あなた、怒っているのね」
 アマーリアは急に顔を上げて、そんなことを言った。
 そのときの彼女は、不思議な目をしていた。呆れているとか、迷惑がっているとか、そういうわかりやすい感情は、そこには見あたらなかった。といって、まったくの無表情というのでもない。強いていうなら――そう、わたしのことを、うらやんでいるように見えた。
 だけどそれはおかしな話だった。いったい彼女が、わたしの何をうらやましがるというのだろう。
「あなたは、腹が立たないの? 悔しくはないの――」
 わたしは震える声で問いただした。彼女が、ほかの皆が、どうして怒らずにいられるのか、理解しがたかった。シスターたちの勝手な理屈に、嘘に。自分たちの置かれた運命に。
 アマーリアはふっと視線を外して、どこか遠くを見るような目をした。
「さあ。ずっと前には、怒っていたような気もするけれど。怒ったって、結局、何も変わらないし……」
 なぜだかちょっと微笑んで、アマーリアは続けた。「それに、怒ったら、悲しくなるじゃない」
「悲しく……?」
 思わず問い返した。言われたことの意味が理解できなかった。アマーリアはうなずいて、そっと囁いた。「あなた、いま、とても悲しそうよ」
 急に、息が苦しくなった。
 とつぜん突き上げてきた感情に、喉を詰まらせて、わたしは泣いた。
 アマーリアは黙って隣に座っていた。ときどきわたしの背中をさすりながら、わたしが泣き止むまで、ずっとそこにいた。
 彼女の本心がどこにあるのかなんて、相変わらずわからなかった。ただ、その手つきは優しくて、彼女の手のひらは温かくて、それがどうしようもなく、わたしにエリを思い出させた。



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