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 その日、薬を服用した直後でもないのに、彼女がやけに沈んでいるように見えたのを、僕ははじめ、いつもの気まぐれかと思った。
 もともとルーは、気分の浮き沈みが激しいほうだ。機嫌が悪いときは、たいしたわけもなくぶすっとしていたりする。
 だけどその日の態度は、いつもの不機嫌とはどことなく違っていた。
 気分が悪いのかいと訊ねたのが、朝食のときのこと。ううん、何ともないと微笑んだ彼女の言葉を、僕は信じた。それまで、薬の副作用以外でルーが体調を崩すことはなかった(少なくとも、僕にはそう見えていた)。
 どんなに怒ったり泣いたりしても、いつの間にかすっかり忘れてけろりとしているのが彼女の常だったから、そういうものだと思いこんでいたのもある。
 おや、今日はなかなか機嫌が戻らないなと思ったのが、昼前のこと。
「本当に、どこも悪くないのかい」
 彼女はやっぱり微笑んで、首を振った。それから、心配してくれてありがとうと囁いて、甘えるように僕の肩に頭を乗せた。
 その日の夜更け、何の前触れもなく、唐突に目が覚めた。普段はあまりないことだった。目をこすって体を起こすと、ルーと目が合った。彼女は常夜灯の明かりに顔の左半分を照らされて、寝台の上に座り込んでいた。
「まだ起きてたのか」
 聞くと、彼女はまぶたを伏せた。「眠れなくて」
「珍しいね」
 言ってから、僕は不安になった。「やっぱり君、どこか具合が悪いんじゃないのか」
 この日三度めの、同じ質問。僕の間抜けさを笑うがいい。
「友達が死んだの」
 彼女のささやきは、夢の中から浮かび上がってきたように聞こえた。
 僕は聞き間違いじゃないかと思って、目をしばたいた。ルーは暗闇の中を見通すようなまなざしで、そっと続けた。
「いやな子だった。いつも張り合ってきてね、試験でも朗読でも、みんなと遊んでるときでも、わたしのほうがちょっとでもその子よりよく出来たり、誰かに褒められたりしたら、不機嫌になって。いやがらせばっかりしてくるの。喋っててもつっかかってきて、口げんかはしょっちゅう。とっくみあいのけんかも何回もしたし、ぜったい仲良くなんてなれないって思ってた」
 かすかな声で、彼女はいった。「でもね、卒業のときになって、その子がわあわあ泣いて」
 僕は口を挟めなかった。ただ彼女の手を握って、耳を傾けることしかできなかった。
「ぎゅっ、て眉間にしわを寄せてね。怒ってるみたいな感じでつかつか歩いてきたから、最後の最後までけんかをふっかけてくる気かと思ったの。最後くらい、気持ちよく別れたらいいじゃないって。それでわたしが身構えてたら、いきなり抱きついてきて。それでわたしの背中にしがみついて、わあわあ泣いたの。ちっちゃい子供みたいに。なにこの子、なんで泣いてるのって、最初は思ったんだけど」
 もう会うこともないんだなって思ったら、わたしもだんだん悲しくなってきて。ルーは言って、ちょっと言葉を切った。そして何かをためらうような間のあとに、そっと続けた。
「それでやっと気づいたんだけど、最初のころからずっと一緒だった子って、もうその子しかいなかった」
 僕はその言葉の意味を、勘違いした。僕らのスクールでも、二年おきにクラス替えがあって、何度も同じ組になったやつや、ぜんぜんクラスが重ならないやつがいたから。彼女が言っているのも、そういう意味だと思ったんだ。
「もう誰も、残ってなかった」
 ぽつりと落とすように言って、彼女は微笑んだ。
 なぜ彼女がそこで笑うのか、僕にはわからなかった。友達が死んで悲しいと、彼女はいまそういう話をしているのだと思うのに、嫌いだった子が死んで気味がいいなんて、そんなことを思ってるようにはとても見えないのに、それだというのに彼女は微笑んでいた。いつもくだらない喧嘩ではすぐ泣く彼女なのに。
 もう泣けないのだと気づいたのは、時間が経ってからだった。
 罹患率、百パーセント。十五歳までの致死率、八十なんとかパーセント。その数字の意味を、僕はわかっていなかった。頭で知っていただけで、何ひとつ理解していなかった。
 彼女がしばしば僕に向かってセンター時代の友達のことを話すのに、その中の誰かと連絡を取り合ったりする様子がないことも、僕はそれまで、疑問にさえ思っていなかった。
 友達の死を見送りすぎて、彼女がもう泣けなくなっていたんだなんて、そのときには思いつきもしなかったんだ。


 翌日、彼女はやっぱり微笑んで、僕におはようといった。
 悲しみは目の端に残っていたけれど、それでも、いつも通りの彼女だった。朝食の間、ひっきりなしにおしゃべりをしてから、食べ終わるなり端末の前に座って、ルーは作りかけていた絵本の続きにとりかかった。
 この頃になってようやく僕は気づいたのだけれど、彼女は絵がうまかった。ライブラリからひっぱってくる出来合いの絵本ではなくて、彼女は自分が考えた物語を、自分の言葉で書いて、そこに絵を添えた。
 動物がたくさん登場する物語だ。正直にいえばストーリーは荒唐無稽で、論理性なんかあったものじゃなかったけれど、ルーの空想が混じった色とりどりの動物たちは、見ているだけで気分が明るくなった。
 それは、生まれてくる子供のための仕事だった。画面に向きあって絵を描く彼女の横顔は、それまでのどんなときより真剣だった。友の死の向こうに、彼女はすでに、新しい命を見ていた。
 僕はずっと、彼女のことを勘違いしていた。ルーのことだけじゃない。女というのは、壊れやすくてすぐに死んでしまう、弱くて悲しい生き物なのだと、そんなふうに頭から思いこんでいた。可哀想なもの、護ってあげなくてはならないものだと。
 僕はいったい、何を勘違いしていたんだろう。
 友の死に耐え、薬の副作用に耐え、わずか数年の後に迫っている己の死の影に耐えて、新しく生まれてくる命のために、精一杯の仕事をしている彼女が、自分よりも弱い生き物だなんて、どうしてそんな馬鹿な思い違いを出来たんだろう。


 まれに、生きのびる女性もいるのだという話は、その少し後にルーから聞いた。
 その多くは、幼いうちに、病巣のすくうはずの器官を、きれいに取り払ってしまうのだという。だけどそうしたところで、必ずしも長く生きられるとは限らない。その手術のせいで命を落とす子もいるし、そのときには無事でも育ちきれずに、あとで死んでしまう子もいる。
 あるいは手術をしなくても、発病したあとに生き延びる者も、稀にはいる。だけどそれは、ほとんど奇跡のような話だ。
 何と言っていいか、まるでわからなかった。まともな相づちも打てず、僕はただうなずきながら、彼女の話を聞いた。
 手術をするか、しないか。どちらの選択肢をとっても、確実なことはひとつもない、残酷な二択だ。
 誰がその手術を決定するのか、ルーは話さなかった。僕も訊ねなかった。本人の意思なのか、親が望むのか。答えがどちらでも、知れば胸苦しくなるだろう。
 そんな話は、教科書には載っていなかった。大人たちは教えてくれなかった。誰も語りたがらない現実。神秘のヴェールの向こう側。
 その話が出たのは、僕が天文学の授業で習ったことを、彼女に話して聞かせていたときだった。
 初等部のときの担任だった。厳格で、頑固で、融通の利かないその教師を、僕らは煙たがっていた。小うるさい叱責の腹いせに、本人のいないところでおかしなあだ名をつけて、替え歌にしたりなんかもして、笑い話の種にしていた。いかにも子供のすることだ。
 そういう余談を、ルーがやけに不思議そうに聞いているなと思った。話が一段落したところで、彼女は首をかしげた。「ずいぶん厳しい先生なのね?」
 彼女にとって教師というのは、小うるさいことをいったり厳しく叱ったり、そういうことをしないものらしかった。生徒が授業を聞いていようが、聞かずにほかのことをしていようが、センターの教師はまるで気にしないというのだ。生徒が授業を抜け出してどこかにいっても、嘆きも呆れもしない。教師たちは優しいか、不熱心かのどちらかだという。
 僕はそれまで単純に、彼女が特に不真面目で勉強が嫌いな学生だったのだと、そんなふうに思っていた。なんておめでたい勘違いだったんだろう。
 彼女の話を聞いているうちに、僕の腹の底には、苦くて冷たいものが沈んでいった。センターの教師が甘い理由に、察しがついたからだ。
 教師が生徒を叱るのは、そこに期待があるからだ。もちろん、単に虫の居所が悪くて八つ当たりをしているときもあるだろう。だけど基本的には、厳しくすることがその生徒のためになると思っているからこそ、叱責するはずだ。少なくとも建前ではそういうことになっている。
 だけど、まもなく死ぬのが決まっている者に、いったい何の期待をするだろう? 厳しく知識を教えこんだとしても、十年先にはそのほとんどが無に帰すと、わかりきっているのに。
「だけど、そういえば、ひとりだけね」
 ルーはふっと思い出したように、そう言った。「ひとりだけ、厳しい先生がいたの」
 文学の教師だったと、彼女は話した。生徒に課題を出し、ひとりひとりを名指しで問いに答えさせた。不熱心な生徒を叱責し、向上心のある生徒を手放しで褒めた。当然のことながら、女の子たちからは煙たがられていた。
「こんなもの勉強したって、何になるのって、みんな思ってた」
 ルーは言って、ふっと、遠くを見るような目をした。「あの先生、どうしてるのかなあ」
 それで、さっきの話になった。まれに生き残って大人になる、女たちのこと。
 そうしたわずかな大人の女たちは、センターに残って寮母や教師になり、新たに生まれてくる女の子たちの世話をするのだという。
 それはどんな暮らしだろう。
 可愛らしくて、わがままで、すぐに泣いたり怒ったりする、女の子たちの集団。みんながみんなルーみたいだとは限らないけれど、きっと賑やかで騒々しいだろう。それが月日を追うごとに、ひとり、またひとりと欠けてゆく。
 いなくなった生徒の顔を、彼女らと交わした会話を、教師たちはどれくらいのあいだ、覚えていられるだろうか。それは、どんな気分のすることだろう。生き延びられたことは、彼女らにとって、果たして幸運と呼んでいいことだろうか。
 それでも僕は、ルーがそうなってくれたらいいと思った。
 その可能性がどんなに低いかは、考えたくもなかった。奇跡のような確率かもしれないけれど、それでも、現に誰かの身の上に起こっている奇跡だ。それが彼女であってはならない理由がどこにある?
 だけどその願いを、口に出しては言えなかった。口にする言葉に、この頃、僕は慎重になっていた。
 その話を聞いてもうひとつ、ルーのこと以外に、こっそりと願ったことがある。生まれてくる僕らの子供のこと。
 どうか、男の子であってくれ。
 こちらの願いも、もちろんルーの前で口に出せるはずがなかった。
 ルーの父親は、どんな気分だっただろう。


 願いが叶った、と言っていいのかどうか、僕らの子供は男の子だった。名前はパーシヴァル。ルーが決めた。彼女が好きな物語の、登場人物の名前からとったそうだ。
 係官から子供の性別を知らされたとき、ルーは喜んだ。その喜びがどういう意味のものかだなんて、僕は確かめなかった。
 もちろん僕も喜んだ。自分の喜びようがルーの目に過剰なものと映っていないかどうか、喜んだあとでこっそり心配した。
 性別を知らされた次の日、委員長と話した。
 あれからずっと気まずくて、怒りが冷めて冷静になったあとも、なかなかきっかけをつかめずにいた。だけど子供が生まれてしまえばきっと忙しくなるし、そうなればそのまま音信不通になりそうな気がした。いっとき迷って、思い切った。
 連絡を取ると、彼は前と変わらない飄々とした調子で通信に出た。この間はごめんとは僕は言わなかったし、彼のほうでも何事もなかったように振る舞った。
『久しぶりだな。変わりないか?』
 委員長はそんな言葉を選んだ。うなずきながら、便利な言葉だなと、皮肉でなく思った。そっちの嫁はまだ生きているかとは、訊けないだろうから。
「そっちは?」
『まあ、相変わらずだよ。このごろちょっと、喧嘩が増えた』
 委員長はそんなふうに肩をすくめて、それからにやりとした。
『もしかして、そっちももうじき生まれるころか?』
「あ、うん。もうちょっと先だけど……男の子だって。名前も決まった」
『へえ、おめでとう――ってのは、気が早いかな』
「いや……、ありがとう」
 祝いの言葉が、やけに照れくさかった。そうだ、もうすぐ父親になるんだよなあと、いまさらながらそんなことを考えた。あれだけルーとまだ見ぬ我が子の話を繰り返し重ねてきたっていうのに、いまだになんとなく、実感が伴っていないようなところがあった。
 委員長のところは、もう半月ばかりで生まれるらしい。どこか戸惑ったような、照れたような声で、彼はそのことを告げた。
 彼のところは、女の子だったそうだ。
 聞いたとき、とっさに、気の毒にと思った。ほとんど口に出しそうになったのを、かろうじて飲み込んだ。
 その言葉は違う、と思った。生まれてくる命に対して、そう言うのは違う。
 彼のほうでも、ことさらそのことを嘆くような様子は見せなかった。もちろん、ただそう振る舞っていただけかもしれないのだけれど。
 あるいは彼のことだから、すでに覚悟が決まったあとだったのかもしれない。
 おめでとうを言い合って、僕らは通話を終えた。


 パーシーが我が家にやってきてからは、もう、てんやわんやだった。
 赤ん坊があんなにうるさい生き物だなんて、思わなかった。いや、もちろんそれまでにも、公園を散歩していて、ぎゃあぎゃあ泣きわめく子供を見たことがないわけじゃなかった。だけどまさか、こんなにひっきりなしに、時も所もかまわずに泣いてばかりいるとは思っていなかった。
 あんなに朝に弱かったルーが、赤ん坊が泣けばどんな夜中でもちゃんと起き出して、半分寝ぼけていてもきっちり赤ん坊にミルクを飲ませ、背中をたたいてげっぷをさせた(僕が手伝おうとしても、パーシーは泣いていやがった。ひそかに落ち込んでいたのだけれど、どこの家でもはじめはそうなんだという話を、近所の先輩パパさんから聞いた)。
 最初はそれでも、泣いていないときはほとんどじっと転がっているだけだったけれど、自力で動き回れるようになってからがまた騒動だった。
 なんせ、ちょっと目を離すとどこにでもいくし、何でもかじる(僕は小型端末を一台ヨダレまみれにされてからは、持ち物の何を駄目にされても嘆かなくなった)。床だの靴だの、なぜよりによってそんな汚いところをというものばかりを舐めまわす。離乳食を食べるたびに、ルーにそっくりのふわふわの髪に、べっとりと食べ残しを絡ませる(こうなるとなかなか手に負えなかった)。勝手に転んで勝手に泣き出す。
 なんとも理不尽な生き物だと思った。赤ん坊というやつは、理不尽だ。
 だけど、不自然ではなかった。
 こんな不毛の土地に、不自然な技術と膨大なコストを注ぎ込んでまで、人類が生き延びる意味が、どこにあるんだろう。子供が生まれる直前まで、僕はそんなふうに感じていた。
 だけどちいちゃな手でぎゅっとルーの胸にしがみつくパーシーは、なにか、この世の中にある良いものだけが凝縮されて生まれてきたもののように思えた。この子がいつかは大人になってしまうのが、残念にさえ思えた(自分もいつかは赤ん坊だったことなんてすっかり棚に上げて)。
 赤ん坊は、生きることに一生懸命だった。ミルクを飲むことにも、排泄にも、緑の目を瞠って両親の会話にじっと耳を澄まして何かを覚えようとすることにも、手をのばして目の前の僕らにしがみつくことにも、いちいち一生懸命だった。
 命は、生きようとするものだ。どんな不毛な土地にあっても。僕はそのことを、この子に教えられた。



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