5話へ   小説トップへ   7話へ


 


 ルーがときどき体調を崩すようになって、自然、僕はひとりで本を読む時間が増えた。ルーが眠っているときにリビングで読むこともあったし、彼女のそばで読むこともあった。公園でも散歩したほうが、気晴らしにはよかったかもしれないけれど、彼女を一人にするのはいやだった。
 気晴らしだったから、軽い読み物が自然と多くなった。本当なら自分の将来のために、技術書でも読むべきだったんだろうけど。
 あるとき、適当にライブラリから掘り出してきた中に、玩具の歴史について紹介されたテキストがあった。いつもだったら興味なんか持たなかっただろうけれど、生まれてくる子供のことが頭にあって、なんとなく手が伸びた。
 玩具といっても、子供に持たせる人形だとかゲームのたぐいだけではない。民芸品だとか美術品だとか、とにかく遊び心が入っているものは、何でも広く紹介されていた。映像や図なんかもずいぶん添えられていて、それを眺めているだけでもけっこう楽しい。
 その中に、ひとつ妙なものがあった。水槽だ。
 これを玩具というのはどうなんだろうと思うのだけれど、ともかくそこでは、玩具の一種として紹介されていた。球形をした、ガラスだか樹脂だかの器。
 水だけを入れてもしかたがない。中に魚を入れて鑑賞するためのものだという。生き物を飼う、ということそのものが、まず新鮮だった。図では水草のそばに、赤い小さな魚が尾をひらめかせて泳いでいて、こうして見る限りは、なかなかかわいらしい。
 興味深く眺めているうちに、ひとつ、妙なことに気がついた。その水槽には穴がなかった。完全な球形で、魚を入れたり出したりするような口がどこにもない。それで詳しい説明を表示させた。
 閉鎖系という言葉が、そこには使われていた。完全なる循環。水槽は完全に水で満たされているわけではなくて、上には少しだけ、空気の層が見えている。光を当てれば、中の水草が酸素を作る。魚が水草を食べて、その糞を養分にして、水草が育つ。光さえ充分に当てておけば、餌の世話をする必要がない。だから水槽には口がない。何もしなくても、魚が死ぬか水草が枯れるまで、半永久的に機能し続ける。
 小さなひとつの生態系が、この水槽の中だけで完結している。はじめ、僕はその説明を好奇心を持って読んだ。よくできているものだなと感心さえした。
 だけどある瞬間、ふっと、いやな気分になった。図の中の魚が、何かに重なったのだ。
 ――何か、なんていうあいまいな言い方はよそう。僕には水槽の中の愛らしい魚が、ルーと重なって見えた。
 ほんものの広い海を知らずに、小さな水槽の中で飼われている、きれいな魚。女の子だけを集めたセンターの中で、まともな教育も受けずに暮らしている女の子たち。
 テキストを閉じたあとも、しばらくその考えは頭の隅をちらついていた。その日の夕食をルーと向かい合って食べながら、僕はなんとなく、彼女と目を合わせきれなかった。
 だけど夜中になって、眠れずに寝返りばかり打っている寝台の中で、唐突に気がついた。僕だって、あの水槽の魚とどれほどちがうっていうんだろう? 
 この月面都市に閉じ込められて、決められたいくつかのエリアだけで暮らし、都市の外に出ることは生涯有り得ない。地球からの情報は遮断され、与えられる知識は制限されている――
 月面都市の掲げる理想を要約すれば、そう、あの水槽と同じことになる。コロニーには農場プラントがあり、樹木が植えられ、水は循環して浄化され、再利用される。人口と作物のバランスは厳密に調整され、外から物資を補給しなくても、おおむねこの中だけで必要なものがまかなえるように管理されている。
 寝具に包まって、なかなか寝付けないまま、あの水槽の説明を思い出していた。完結した小さな世界。あとから補給は出来ないのだから、魚が増えすぎては飢えてしまう。それで雄だけとか、雌だけとかを、一匹か二匹だけ入れるのだ。だから完全循環と謳い、半永久的に機能するといいながらも、中の魚はいずれはすっかり死に絶える。
 僕らはどうだ。地球では、おそらくすでに外宇宙を目指す宇宙船がいくつも建造されているだろうに、月面都市では地球との間を往復するためだけの小さな船さえ、もはや自力では作れない。作ったところで意味がないから誰も作らないでいたら、そのうちに技術は忘れられてしまった。
 これまでは、そういうものだと思っていた。知識として頭に入ってはいても、たいして疑問に思いもしなかった。
 だけどこんなふうに、昔のことが書かれたテキストを読みつないでいくと、いつのまにか察せられるものがある。いまよりも工学が進んでいた時代が、月にはあるという、シンプルな事実。一度考え出せば、むしろ普段はそのことを意識しないでいられることのほうが不思議に思えるくらい、それは自明のことだった。
 いや、不思議というほどのことでもないのかもしれない。衰退を、誰も好んで語りたがらないというだけのことで。
 閉ざされた世界の中で、僕らはゆっくりと衰退しつづけていくんだろうか。
 そうだとすれば、この閉塞した世界で人類が生きつづけてゆくことに、どれだけの意味があるんだろうか。
 都市という水槽の中に飼われている僕ら。さらにその中に設えられた、もっと小さな水槽の中に閉じ込められている、女の子たち。
 地球に暮らす人々は、僕らの状況をどれくらい知っているんだろう? 彼らは僕らのことをどんなふうに考えているんだろう。同情を持って夜空の月を仰ぐのだろうか。それともできるだけ考えないようにしているのか。もしかしたら、詳しいことを教えられてもいないかもしれない。女の子たちの存在をヴェールの向こう側に押しやって、直視しないようにしていた僕らのように。
 その夜、とうとう僕は眠れなかった。


 もちろん、ルーは始終体調を崩してばかりいたわけじゃない。薬を飲む日は決まっていて、そのほかの日にはたいてい以前と同じように、元気にしていた。いや、むしろ生まれてくる子供のことを楽しみにしている分、前よりもはしゃぐことが多いくらいだった。
 子供に与える玩具のことや、赤ん坊の世話の仕方なんかを、僕らは飽きずに話しあった。小さい子供と暮らすときの注意事項について、あまりにも彼女が次から次に羅列するものだから、育児が始まる前から、僕の頭の中はすっかり心配ごとで一杯になってしまった。
 僕らは本当に大丈夫なんだろうか。うっかり赤ん坊にけがをさせたり、思わぬことで死なせてしまったりしないだろうか(もっとも、あの忌々しいアドヴァイザーが子供の成長に合わせて、適宜アナウンスを流してくれることになってはいるんだけど)。
 二人で手をつないで、外を散歩することもあった。公園で、親子連れの人々に挨拶をしたりもした。いまのうちから仲良くしておかなくちゃと言い出したのはルーだった。いつか子供のことで、彼らに相談することもあるかもしれないからと。
 彼女は賢い。学校で習うような知識は乏しいかもしれないけれど、僕よりもずっと賢い。ものを知らないことと、愚かなことは違うんだということを、僕はこのころようやく学んだ。
 ルーとの散歩は楽しかった。公園の天井が高いことも、光が燦々とまぶしいことも、それまでは何とも思っていなかったし、鳥の声を模したという環境音楽も、むしろ不自然で無駄なもののように思っていた。それなのに、単純なものだ。彼女と二人だと、それらの要素がどれも、心を浮き立たせてくれるものに変わった。
 僕らはよく散歩中に、子供の名前について話し合った。そのころはまだ子供の性別を知らされていなかったから、どちらの場合にもそなえて、両方考えておこうということになった。僕が提案する名前を、ルーはセンスがないといって、どれもあっさり却下した。それでまたひとしきり喧嘩になった。だけどこのころには、僕は、彼女との喧嘩を楽しいと思い始めていた。
「そういえば君、最初のころは、ずいぶん大きな猫を被ってたね」
 ふてくされているルーに、からかうつもりでそう声をかけると、彼女は恥ずかしそうに唇をとがらせた。「だって、セオがどんな人か、まだわからなかったし」
 怖い人だったらどうしようと思って、不安だった。そんなようなことを、ルーは言った。僕はそれを聞いて、一瞬言葉に詰まった。
 僕だってもちろん彼女に会うまで、不安ではあった。自分の花嫁になる女の子がどんな相手かわからず、可愛かったらいいなんて期待しながら、いやな子だったらどうしようなんて、よけいな心配をしていた。だけど彼女のほうが、もっと不安だっただろう。だってルーはこんなに細くて小さくてやわらかい。たとえばもし相手が僕じゃなくて、もっと乱暴でがさつな男で、彼女を殴ったりするようなタイプだったなら――自分で想像しておきながら、僕はその自分の考えに腹を立てた。
 ひとしきり腹を立てたあとで、ちょっと嬉しくなったりもした。被っていた猫を早々に脱いだのは、彼女が僕を信頼してくれたからだろうと、そう思い当たったので。まったくルーが言うとおり、男は単純だ。


 散歩といえば、この時期にちょっとした事件があった。
 僕らはいつものように、ふたりで昼下がりの公園を歩いていた。そこに追いかけっこをしていた男の子たちが、ろくに前も見ずに走ってきて、中のひとりがルーにぶつかった。
 彼女はとっさに悲鳴を上げたけれど、すぐに満面の笑顔になって、威勢よく腕まくりをした。そうしてその子の親らしき男女が駆け寄ってきて謝るよりも早く、男の子らの遊びの輪に飛び込んでいった。止める間もなかった。
 そんな大人は、これまで周りにいなかったんだろう。中には面食らったようすの子もいたけれど、彼女がどうやら本気とみるや、彼らはあっという間にこの大きな仲間を受け入れる気になったようだった。
 やけに大きな子供がいるなあなんて僕がからかっても、ルーは楽しそうに笑い声を上げて、それこそ子供顔負けのバイタリティで、公園中を走り回った。こんなにはしゃいだら体に障るんじゃないかと、こっちが心配になるくらいに。
 それでも彼女があんまり楽しそうだったから、僕は少し離れたベンチに掛けて、ルーの気が済むまで待つことにした。後になって思えば、僕も一緒になって遊べばよかった気もする。いや、無理だったかも。彼女のように三つや四つの子供らと対等につきあったり、知らない子たちから一瞬で仲間と認めてもらえるような才能は、僕にはなさそうだから。
 もともと彼女は子供が好きで、いつも散歩中、よその子供たちを見ては羨ましそうに目を細めていた。生まれてくる僕らの子供のことに思いを馳せているのだろうと思っていたけれど、もしかしたらそれだけじゃなくて、ルーはずっとあの輪に入りたかったのかもしれない。
 きゃーっ、と楽しげな悲鳴が上がって、見ればルーが床に転がった男の子の脇腹を、両手でくすぐっているところだった。周りの子供たちもおもしろがって、彼女に加勢していた。その光景を、僕は目を細めて見守った。なにかと憂鬱な物思いの増えていた時期だっただけに、彼女の明るさが、大きな救いのように思えた。
 その男が公園に入ってきたのは、いつだったんだろう。
 ある瞬間、何となく周囲のざわめきの質が変わったような気がして、僕はあたりを見回した。ひとりの男が、子供たちのいるほうに歩いてきているところだった。
 連れのいない男が、ひとりで公園にいる。それ自体がかなり珍しいことでもあった(僕がいつか委員長と待ち合わせをしたときにも、それで居心地が悪かったくらいだ)。ひどく痩せて、顔色の悪い男だった。歩き方もどこか不規則で、どこか具合が悪いんだろうかととっさに考えたくらいだった。
 声をかけるかどうか迷っている間に、男は子供たちのそばを通り過ぎかけて、そこで唐突に足を止めた。何かに驚いたようすだった。充血した目を瞠って、男は立ち尽くしていた。
 何か異様な気配を覚えた僕が、ようやくベンチから腰を浮かせたとき、男が急にルーに駆け寄って、彼女の手をつかんだ。
「――あんただ」
 ルーがかすれた悲鳴を上げた。周囲の家族連れは、みな凍り付いたようになっていた。男はルーに向かって、怖がらないでくれだとか、やっと会えただとか、そういうようなことを繰り返した。僕はようやく追いついて、男の肩をつかんだ。着崩れたシャツの下の体の感触は、遠目に見た印象よりもさらにやせ細っていた。
 何をするんだ。彼女から手を離せ。そんなようなことを、僕は言ったと思う。喧嘩慣れしているわけではなかったから、声を荒げるのに躊躇しなかったといえば嘘になってしまう。男はいらだたしげに僕の手を振り払って、ますます強くルーの手をつかんだ。
「おい!」
 だけど結果的には、もみ合いになる前に片がついた。警備用のロボットが飛んできたからだ。
 そう、そいつは宙を飛んできた。手のひら大の、丸いタイプだった。銀色にぴかぴか光る、ガードロボット。そういうものがあることは知っていたけれど、じかに目の当たりにしたのは、このときが初めてだった。それが男の首筋をめがけて、まっすぐ飛んできた。
 男の手からとつぜん力が抜けて、がくりとその体が崩れ落ちた。周囲で悲鳴が上がった。ロボットのマイクが起動して、AIの、アドヴァイザーによく似た声がアナウンスした。『鎮静剤です。みなさん、どうか落ち着いてください。すぐに警備員がやってきます。不審者に近づかず、あわてないでそれぞれの家に帰ってください。……』
 その声ではっとして、僕はルーの肩を抱きよせた。
「大丈夫? ケガはしてない?」
「何ともない……怖かったけど」
 ルーはちょっと青ざめてはいたけれど、それでもパニックにはならず、しっかりしていた。僕の袖を握ったまま、おそるおそる倒れている男を見下ろして、彼女は不安げにまばたきを繰り返した。
「なんだったのかな」
「さあ……」
 崩れ落ちた男は、ほとんど体を投げ出すように、ぐったりと地面に転がっていた。死んでいるのではないかと思うほど、ぴくりとも動かなかった。顔色が悪く、ひび割れた唇が、ぞっとするほど青ざめていた。
 もしかして、本当に死んでいたんじゃないかと、後になって何度か考えた。益体もない、子供じみた想像かもしれない。AIは鎮静剤だと言った。だけどそれが嘘でないと、誰に証明できる? 僕らは本当に、月の行政機構を信じ切っていいのか?
 男の様子は尋常ではなかった。頭がおかしい、といえば差別的表現になるんだろうか。少なくとも精神の平衡を欠いているように、僕には見えた。彼はどこからやってきたんだろう? どこに連れて行かれてしまったんだろう?
 心のどこかであの男に同情し、行政への不信感を覚える一方で、すみやかな警備ロボットの出動に安堵していたのもまた確かだ。とにかくルーに危害が及ばなくてよかった。情けない話だけれど、僕だけでうまく対処できていた自信はない。
 僕らは手をつないで、黙りがちに家に帰った。歩きながら、あの水槽のことが、頭の隅をちらついた。水槽は閉ざされた狭い世界かもしれないけれど、その一方で、たしかに魚を外界の危険から守ってもいるのだ。



   7話へ
拍手する


 

5話へ   小説トップへ   7話へ




 

inserted by FC2 system