闇夜にさまよう へ  小説トップへ


 
 中天に浮かぶ満月が、浩々とあたりを照らし出していた。
 気がついたときには、人家の明かりもない夜の道に、ひとり、立ち尽くしていた。しんと冷えきった空気が、肌を刺す。凛とした、張りつめるような、冬の夜。
 足元には砂利の敷きつめられた道が、細くくねるように、山の中へと続いている。その脇にはぽつりぽつりと、石の灯篭が点在しているけれど、その光より、月明かりのほうがよほど眩しいくらいだった。
 自分がどうしてここにいるのか思いだせなくて、まばたきを繰り返した。
 鬱蒼と繁る樹々の、黒々としたシルエットが、目の前に迫る山のなだらかな斜面をおおっている。風はまったく吹いていなかった。葉擦れの音ひとつ、聞こえない。その代わりのように、砂利を踏むような音が、少し離れたところから響いていた。
 音のするほうを見ると、誰か、小柄な人影が、手にオレンジ色の明かりを持って、吸い込まれるように山に踏み入っていくところだった。その背中が小さくなっていくのを見ながら、ああ、わたしもこの山を登るんだったと、唐突に思い出した。
「提燈を、持っていったがいい」
 ふらりと足を踏み出したわたしを、呼び止める声があった。
 驚いて振り返ると、少し離れたところに、お婆さんがひとり、座り込んでいた。
 声をかけられるまで、そこに人がいることにまったく気がついていなかった。そのことを奇妙に思いながらも、砂利を踏んで近くまで歩み寄ると、作務衣というのか、白くそっけのない着物に包まれた体が、ひどく痩せこけているのがよくわかった。寒くはないのだろうか……
 その人の座る横には、竹の棒を組みあわせた台が、傾ぐようにして立っていた。それはお祭りで、お面や綿菓子なんかを陳列する棚に見えた。だけどそこに吊るされているのは、子ども向けのオモチャでも、綿菓子の袋でもなくて、なぜか大きな鬼灯で作られた、オレンジ色の提燈だった。
「そら」
 お婆さんはその枯れ枝のような手を緩慢に動かして、出来上がったばかりの提燈を、わたしに向かってさし出してきた。
 こんなに明るいのに、と思ったけれど、山道に深く踏み入れば、勝手がちがうかもしれない。素直にその手から提燈を受けとって、お礼をいうと、お婆さんはつまらなさそうに頷いて、次の提燈を作り始めた。
 手にとってまじまじと見つめると、それは、やけに大きな鬼灯だった。いくらなんでも作り物にちがいないと、そっと指先で触れてみるけれど、かさかさと乾いた手触りは、お盆に仏壇に飾るほんものの鬼灯と、同じように思える。乱暴に扱えば、破れてしまうのではないかという気がして、そっと棒を握りなおした。
 上り口に足を向けながら、もう一度、夜空を仰ぐ。月が明るすぎて、星はほとんど見えなかった。
 灯篭の脇にさしかかると、ふわりと柑橘系の匂いが鼻をくすぐった。さっき見かけた人の、残り香だろうか。
 それは、知り合いがよくつけているのと、同じ香水だった。

 大宮さんというその女の子と知り合ったのは、大学に入ってからだった。
 クラスはちがったけれど、同じ講義をいくつかとっていたので、顔を合わせる機会が多かった。人なつこく、よく歯を見せて笑う子で、初対面のときから、まるで古い知り合いででもあるかのように、気さくに話しかけてきた。
 大宮さんは彼氏のことをよく話題にのせる。相槌をうちながら話を聞いていると、彼女の表情は、ぱっと輝いたり、照れくさそうに緩んだりと、くるくると変わって、それがとても可愛らしかった。ありふれたのろけ話も、ささやかな愚痴も、彼女が活き活きと話すのを聴いていれば、不思議とひどく楽しいことのように思えてくるのだった。
 ――ね、リコちゃんの恋バナも聞きたいな。
 ある日、大宮さんは目を輝かせて、そんなふうに話を振ってきた。
 一度も恋をしたことがないのだと、正直に答えると、彼女はちょっと目を丸くして、小さく吹きだした。
 ――ウソだあ。何かあるでしょ。つきあった男とかじゃなくても、片思いとか、憧れのひととかさ。
 なにもなかった。恋に恋すると人が形容するような、少女らしい淡い初恋も、大人の男の人への憧れも。
 残念ながら何も、と、そう答えたわたしの腕を、大宮さんは肘でぐいぐいと押してきた。
 ――なに、恥ずかしいの? あっ、それとも、人にはいえない話?
 わたしはあいまいに笑って、答えを濁した。もうそれ以上、否定はしなかった。本当にないのだと、力説して理解してもらおうとするのが、おっくうになったのだった。
 彼女に悪気はなかったし、わたしもべつに、信じてもらえなかったことに、腹を立てたりもしなかった。ただ――
 ああ、それは異常なことなのか、と。
 心のどこかで薄々と察していたことを、あらためて形にするように、そう思ったのだった。

 砂利を踏みしめながら道を登りだすと、まわりに繁る樹のぶんだけ、ふもとよりはぐっと暗くなったけれど、月がほとんど真上に位置していることもあって、足元が危ういほどではなかった。手にもっている提燈のせいで、かえって周囲の闇が深く思えるくらいだ。
 柑橘系の香水をつけている彼女とは、いまでもわりとよく話をするし、あの一件で、気まずくなったりはしていない。ただ、そう、正直なところ、わたしは彼女に対して、ほんの少し、苦手意識を感じている。
 彼女が悪いわけじゃない。原因はすべて、わたしにある。――彼女はどこか、わたしの妹と似たようなところがあるのだ。
 まだどこか、鼻の奥のほうに、例の香水のにおいが残っているような気がした。
 鼻をこすりながら歩くうちに、前方から、降りてくる人影があるのに気が付いた。道をゆずるつもりで、半歩、脇によける。
 提燈の光をじっと見つめながら、その相手が近づいてきたところで、あっと声を上げた。
 降りてきたのは、妹だった。
「あかり。こんなところで、何してるの」
 立ち止まって顔を上げた妹は、目を赤く腫らしていた。わたしをちらりと見たきり、すぐに目を逸らしてしまう。
「どうしたの。ひとり?」
 あかりは答えなかった。何かをいいかけるようなそぶりがあったが、すぐに首を振ると、山の上の方を身振りで示して、そのまま道を下っていく。その手が、どうしてか、泥だらけだった。
「あかり」
 もういちど呼びかけたが、妹は振り返らなかった。悄然とした足どりで、よろめくように、降りていく。
 その背中を見送って、わたしはその場でしばらく、立ちすくんでいた。
 どうしたというのだろう。
 あとを追いかけるかどうか、しばらく迷ったけれど、結局は踵を返して、ためらいながら、もとの道を登り始めた。

 あかりは小さいころには、よくわたしのあとをついて回っていた。どこにいくにも追いかけてきて、お姉ちゃん、お姉ちゃんと、騒々しいくらいに。
 それが、いつごろからだっただろうか、妹が苛立ちのにじむ目で、わたしを見るようになったのは。
 ――お父さんだって、お母さんだって、お姉ちゃんよりも、わたしのほうが好きなんだから。
 なにかの拍子に、やきもち焼きの妹からそういわれたのは、まだあかりが小学校に入ったばかりか、その頃のことだったと思う。
 わたしは反論しなかった。
 まだ小さな妹のいうことだからと、寛大な気持ちでとらえたわけではなかった。そのとおりだと、思ったからだ。
 あかりは昔から、いつもよく笑う明るい子で、思ったことをなんでも素直に口に出した。それが原因で、周りの子と衝突することもあったけれど、そのかわり、仲直りするのも早かった。ただわがままなばかりでもなく、人が怪我をしていたり、傷ついていたりすると、ためらわずその傍に寄り添って、一緒になって悲しそうな顔をする。そんな妹のことを、両親は溺愛していた。
 ――うん。そうだと思うよ。
 わたしは頷いて、そんなふうに答えた。
 その態度が、面白くなかったのだろう。あかりは悔しさをこらえるような、いまにも泣き出しそうな、そんな顔になった。
 適当にあしらうつもりでもなければ、意地悪をいったつもりでもなかった。わたしは慌てて妹のほうに手を伸ばしたけれど、あかりはその手を振り払うと、駆け出して、そのままどこかにいってしまった。

 あのときの妹の、もつれるような足で走り去っていく小さな背中と、さっきのあかりの姿が、記憶の中で重なった。
 上り始めたときには吹いていなかった風が、少し出てきたようだった。樹々がざわめく。流される髪を押さえて、空を見上げると、空の端に、わずかに雲が出始めていた。
 途中、何度も立ち止まって、背後を振り返った。あかりがそこで、泣いているのではないかと思って。だけど目を凝らしても、曲がりくねった道の向こうに、妹の姿が見えるはずはなかった。
 ひとりで無事に帰れただろうか。そういえば、薄着のようだったけれど、寒くはないのだろうか。風が冷たいのが、いまになって気にかかった。
 いまからでも、引き返して追いかけようかと、何度か考えた。それでも、わたしもこの上にいかなくてはならないのだと、そして、その機会は今夜のほかにはないのだと、なぜだかそういう気がして、結局はまた、道を登り始めた。
 いつでもよく笑ってよく泣くあかりは、昔から、わたしには少しばかり眩しく、苦手な存在でもあった。けれど、けして嫌いなわけではない。ときにその奔放さに腹を立てたり、うらやましく感じたりすることは、あったかもしれないけれど。
 もう一度、振り返った。葉擦れや鳥の声を除けば、夜の山道はしんと静まりかえっていて、あかりの足音は、もうまったく聞こえない。
 あの子もたぶん、ただ単純にわたしを嫌っているというわけではないのだと、思う。
 いつでもわたしのなにか足りないところに、あかりは腹を立てている。だけど、それがわかっているのに、わたしはいつだってあの子の望むとおりのものを、与えてはやれないのだ……

 それはわたしが中学生になって、まもなくの頃のことだった。
 ――お姉ちゃんは、一緒に住んでるだけの、他人みたいだ。
 震える声で、怒るように、あかりはそういった。
 いわれたわたしは、何も答えなかった。突然ぶつけられた怒りに、ただ、戸惑っていた。
 何がきっかけだったのか、もうよく覚えていない。たぶん、あかりの悩みか何かを聴いているときに、わたしが答えた言葉が、気に入らなかったのではないかと思う。
 あかりはいっとき、じっとわたしを睨みつけていたけれど、やがて唇をきつくかみ締めて、踵を返した。その背中に向かって、わたしはとっさに呼びかけた。呼び止めるための言葉も持たないまま。
 ――あかり。わたしは……
 その後がつづかなかった。
 あかりはしばらく背を向けて立ち止まったまま、わたしが何かいうのを待っていたけれど、やがて諦めたように、ふっと肩を落とした。
 ――もういい。
 あかりは傷ついたような声でいい捨てて、自分の部屋に閉じこもってしまった。わたしは誰もいなくなった居間にとりのこされて、長いこと、その場に立ち尽くしていた。怒ることも嘆くこともせず、ただ、どうしていいかわからなくて。
 あのときわたしは、もっと、傷つくべきだったのだろうか。
 もちろん、まったく傷つかなかったわけではない、と思う。その証拠に、わたしはその日の夜、父の和室をおとずれた。
 何か本を読んでいた父は、顔を上げて、小さく首をかしげた。わたしは反抗期とは縁がなくて、両親と喧嘩をすることはほとんどなかったけれど、わざわざ父の部屋を訪ねていくことは珍しかった。
 ――どうかしたの。
 父は本を机に伏せ、何かを読むときにだけかけている眼鏡をはずしてその上に置くと、ゆっくりとした口調で、そう訊ねてきた。
 思えばいつも、感情を波立たせるということのない父だった。
 わたしに反抗期がなかったのも、父の性格的なことが、大きかったのだろう。相手の話を聴かずにものごとを決めつけたり、頭ごなしに叱ったりすることのまったくない、穏やかで、理性的な人だった。
 わたしがこのとき、父のところに話をしにいったのも、父ならばそれをわたしの告げ口とは受けとらないし、妹を叱ったりもしないだろうと、そういう算段があったからだ。
 あかりの言い分を、わたしはそのまま父に話して聞かせた。それに傷ついたとか、あかりに何かいってほしいとか、そういうことを訴えたかったのではなくて、ただどうしていいかわからずに、途方に暮れていたのだと思う。そしてそれは、父にもちゃんと伝わっていたようだった。
 父は小さく苦笑して、小さなころにときどきそうしたように、わたしの頭にぽんと手を置いた。
 ――理子は、僕に似ちゃったんだなあ……。
 その声は、少しばかり残念そうな、あるいは慈しむような、どちらともつかない色合いをしていた。
 ――あかりは、理子が思うよりもたぶん、お姉ちゃんのことが好きなんだよ。
 父は言葉を選ぶように、ゆっくりといった。わたしは少し首を傾げて、そのわかるようでわからない言葉を、胸のうちで噛み砕こうとしていた。
 ――だけどね、理子。
 続きをいおうかいうまいか、迷うように、父はそこで言葉を切った。それから少しの間のあとに、ゆっくりと続けた。
 ――家族だって、結局は、一緒に暮らしているだけの、他人なんだよ。どんなに仲がよくても、どんなにお互いに大切に思っていても、それは、そういうものなんだ。
 その言葉を聞きながら、ああ、たしかにわたしは父に似たのだろうと、そんなことをぼんやりと思っていた。

 夜の山道には人気が少なく、妹とすれちがったあとには、誰にも行き会わなかった。それでもときおりどこか遠くで、砂利を踏むかすかな足音や、藪をかきわけるような物音が響く。そのたびにわたしはふりかえって耳を澄まし、それが、あかりではないかと考えた。
 わたしの心がけが、なにかひとつ違っていれば、もっと仲の良い姉妹になれたかもしれないと、その思いは昔からいつでも、胸のどこかにあった。
 けれど物心ついたときにはすでに、わたしはあかりとも、そしてたぶんほかの誰との間にも、どこかで距離をおいていた。
 何も、あかりのことを嫌ったからではない。ただわたしが、そういう性質だったのだろう。
 そう思うなり、とげのような疑問が胸にひっかかって、思わず足を止めた。自分の足音がやむと、静寂は重みを増して、白々と月の明るい山道が、なにか、現実味のない影絵のようだった。
 ほんとうに、はじめからそうだっただろうか。わたしは小さいころから一度も、あかりに嫉妬したことがなかっただろうか。
 胸の奥で、長く取り出すことのなかった古い古い記憶が、目を覚ました。

 図書館にいくけど、と、記憶の中の父がいった。
 ――理子、あかり。一緒にくるかい。
 まだ小さかったわたしたちは、顔を見合わせると、父のあとについて家を出た。わたしたちは多分、図書館というところがどういうものなのか、まだわかっていなかったと思う。ただ、休みの日にあまり家を出たがらない父が、どこかに連れて行ってくれるという、そのことが単純に嬉しかった。
 手をつないでとねだるあかりに、片手に本を入れた紙袋を下げていた父は、もう片方の手を差し出した。
 二人の後ろを歩きながら、わたしは二人のつながれた手を、じっと見つめていた。あのときわたしはそれを羨ましいと、思っていなかっただろうか?
 だけど図書館に入って、古い紙の匂いに包まれたとたん、わたしはそれまで考えていたことを、いっぺんに忘れた。
 そのときが多分、生まれて初めて図書館にいった日だった。たくさんの本が並ぶ大きな書架に、わたしは魅入られたように立ちすくんだ。
 ――ええと、こっちがいいかな。
 父は絵本や児童書の並ぶコーナーに、わたしたちを連れていった。けれどわたしはその手前の棚、宇宙の神秘について触れた本の前で、興味を引かれて、足を止めた。
 写真のついた図説を手にとって、そのときに父に向けた質問が何だったのか、自分ではよく覚えていない。なにか天体に関することだったような、漠然とした印象だけが残っている。
 父は驚いたように目を丸くして、微笑み、図書館にふさわしい低めた声で、わたしの質問に丁寧に答えてくれた。
 ――そうか。理子は、星が好きなんだね。
 そう小さく呟く父は、嬉しそうだった。父が携わっていたのは事務仕事だったが、ずっと昔には宇宙飛行士に憧れていたのだと、ずいぶんあとになってから聞いた。
 ――かえろうよ。
 さらに父に何かを質問しようとしたとき、あかりが、ぐずるように声を上げた。
 ――まだ、来たばっかりだよ。ほら、向こうにあかりの好きなぐりとぐらのご本があるよ。読んでおいで。
 父がそういっても、あかりは譲らなかった。
 ――ここ、つまんない。おうちがいい。ねえ、かえろう。
 しまいには顔を赤くして泣き出したあかりに、父はしかたなく、借りてきた本だけを返却カウンターにかえして、ねだられるままに肩車をした。
 ――ふたりで先にかえっていいよ。わたしは、あとからひとりで帰るから。
 本に未練があったわたしは、そういってみたけれど、当然ながら、許してはもらえなかった。そのときわたしはまだ小学校に上がったばかりで、図書館はいつもの通学路からも離れていた。
 父はわたしの背中を押して、ゆっくりと家路を歩いた。今度、宇宙の本を借りてきてあげると、そういって。
 父の肩にのって運ばれながら、けろりと機嫌をなおして笑うあかりを見上げたあのとき、わたしは、どんな感情を抱いたのだったか……

 藪ががさりとなって、はっとした。とっさにのぞき込むと、誰か男の人の、ジーンズに包まれたお尻が見えた。這いつくばるように藪に頭を突っ込んで、何かを探している。
「くそっ」
 その悪態からは、いかにも柄が悪そうな感じがした。関わりあいになるまいと、わたしは足を速めて、道を急いだ。誰だかわからないその人は、わたしの足音に気を配るふうもなく、苛立ちを隠そうともせずに、せわしなく藪を鳴らしている。
「なんで見つからねえんだよ……」
 背後から、焦燥に満ちた独白が、追いかけてきた。その声の、胸の詰まるような響きに、いったい何を探しているのだろうと、気を引かれはしたものの、足を止めて詮索する気にはなれなかった。
 その人のいた場所を通り過ぎたあたりから、道は少し、細くなったようだった。あちこちで曲がりくねってはいるけれど、ずっと一本道のようだから、迷う心配はしなくてすみそうだ。
 藪を引っ掻き回す音が、少しずつ遠のいていく。歩きながら、さっきの男の人の声音を、耳に反芻していた。
 いったい何を、あんなに必死に探しているんだろう。
 ずいぶん距離がひらいても、その疑問が、胸の端のほうに引っかかっていた。人が懸命に何かを追いかけているときの、その必死さに、戸惑いつつも興味を惹かれるようなところが、わたしにはある。
 そうはいっても、いまの男の人と親しくなりたいとは思わなかった。近づいてくるような足音は聞こえなかったけれど、少し足を速める。少し息が上がって、肺に飛び込む空気が冷たい。
 でも、と、胸の内側で、皮肉に囁く声がある。そもそも、誰かと親しくなりたいと思ったことが、わたしにはあっただろうか?

 ――リコちゃんってさ、人の悪口とか、いわないよね。
 それが誉め言葉でないのは、相手の声の調子でわかった。
 中学校のときのことだ。放課後の教室。クラスメイトの女の子と、ふたりきりだった。
 ――そうかな。そんなことないと思うけど。
 ことを荒立てるのがいやで、そう答えはしたものの、彼女の言は、おおむね事実のとおりだった。たしかにわたしはあまり、人を悪くいわなかった。悪口をいうほど、誰かに関心を持ったことがないというほうが、あるいは正しいかもしれなかった。
 ――いつもいい子です、みたいな顔して、なに考えてるか分からない。
 わたしは何も答えなかった。答えるべき言葉がみつからなかったので。
 誰かを強く嫌ったり、妬んだりするほどには、他人に向ける情熱を、わたしは持てなかった。
 もう名前の思い出せないその女の子は、それまでずっとこらえていたらしい不満をひとしきり吐き出すと、汚いものでも見たように、わたしから視線を外した。
 わたしはその言葉に、視線に、傷ついただろうか。
 傷ついたのかもしれないけれど、実感はなかった。悔しいわけでも、悲しくて泣きたくなるわけでもなく、ただ漠然と、胸の中で彼女の言葉を反芻していた。そしてその間、ひとつの疑問が、絶えずぐるぐると頭の中を回っていた。
 どうして皆、人のことをそんなに気にするんだろう。誰かが誰かを特別に好きだとか、嫌いだとか……。何かが誰かよりうまいとか下手だとか、誰かが人とどう違うだとか。そんなことに、どうしてあんなふうに熱心になれるのだろう。
 それまではただおぼろげな影のように、心のどこかを漂っていた疑問が、この出来事を境に、はっきりと形を得て、胸の片隅に残るようになった。
 それでも学校にいくこと自体は、それほど苦痛ではなかった。わたしはいつも、クラスでどこか浮いてはいたけれど、いじめというほどのことにもあわなかったし、勉強はきらいではなかった。
 そういえばあの頃、数学や理科の授業が、とても好きだった。帰結する美しい論理、解のひとつしかない答え。
 何もかもが、そんなふうに整然とわりきれる世界に生きることができれば、きっと幸せだろうにと、ときどきそんなことを思っていた。熱や力学や、生物の体の仕組みや、そんなものの話を聴いていると、世界を形作る、無数の緻密な仕組みの、ひどく複雑なような因果関係も、いまの科学ではすべてを網羅できていないにしても、いつか丁寧にときほぐしていけば、何もかも説明がつくことであるかのように錯覚できた。
 シンプルな方程式であらわされる力の働きや熱に、遥かな空から落ちてくる雨滴の不思議に、夕焼けの色合いや虹に。霧氷やオーロラといった、気象条件が絡み合ってつくる奇観に。生物の体を形作る複雑で精緻な機構に。そうしたものの話のひとつひとつに、わたしはいつも目を輝かせて、教師の話に耳を傾けていた。
 その情熱と同じくらいの強さで、ほかの人たちひとりひとりの言葉や生き方や感情に、興味を持つことができればよかった。他人の心の動きに、親しく気持ちを寄り添わせることができればよかった。
 だけどわたしにとっては、彼らの情熱も、衝動も、そのほとんどが、この身に重ねるところのない、別世界の出来事のようにしか思えないのだった。
 わたしは間違えて宇宙人の社会にまぎれこんだ、たったひとりの人間みたいだった。いや、きっと、逆なのだろう。わたしのほうが、ふつうの人たちのあいだに紛れ込んだ、宇宙人なのだ。
 その年頃のときは、そんなふうに感じるものだと、あとになって誰かからいわれたけれど、わたしのその感覚は、いまでも多分、どこかに尾を引いている。

 ざあっと音を立てて、木々の梢が唸った。風に流される髪を押さえて、空を仰ぐ。まだ月は高く、あたりは充分に明るい。
 ふとすぐ傍にそびえる樹に視線をとられて、おや、と思った。木肌や枝の感じからは、その樹は、ミズナラのように見えた。
 頭上に目を凝らすと、両手を大きく広げるように膨らむ樹冠には、特徴のあるぎざぎざの葉が茂っている。
 この樹は、冬には落葉するはずではなかっただろうか?
 わたしは立ち止まって、じっとその大木を見上げた。そもそも、いまはほんとうに冬だっただろうか。
 今日が何月何日なのか、なぜか思い出せなかった。だけど肌を刺す風の冷たさは、冬のそれのように思える。
 おおお、と、人の唸り声のような音で風が鳴いて、顔を上げた。それはまるで、何かを嘆く声のようだった。
 その音は、記憶の中で誰かが悲嘆に暮れる声と一緒になって、胸のどこかに引っかかり、ふたたび道を登り始めたわたしのあとを、執拗に追いかけてきた。
 皆、必死に誰かを好きになり、あるいは嫌って、何かを追い求めては、得られずに嘆き、悔しがって……
 どうしてそういう当たり前のことが、わたしにはできないんだろう。

 そういえば、わたしはあのときにも、父に話を聴いてもらったのだった。クラスの女の子に、何を考えているのかわからないと責められた、あの日の夜に。
 友人たちに興味を持てないことを、うまく自分の中で正当化して、一匹狼でも気取ればよかったのかもしれない。でも、わたしは悪くないと、周りの子たちが愚かしいのだと、そんなふうに割り切ることも、それはそれで難しかった。あかりが常々わたしにいうようなことと、彼女たちのいいたいことは、どこかでつながっているような気がした。
 わたしが困惑するのは、人の悪意に対してだけではなかった。たとえそれが好意的な視線だろうと、人から注目されることは、わたしにはいつでも、わずらわしかった。わたしのそういう薄情さは、どこからやってきたのだろうと、そんなようなことを、わたしはぽつぽつと父に話しかけた。
 ――理子は、人に甘えたり、頼ったりするのが、苦手だよね。
 父はしばらく考えてから、そんなふうにいった。家のすぐ外にある街灯の、強すぎる白々とした光が、父の書斎に斜めにさし込むのを見つめながら、わたしは黙って、父の言葉の続きを待った。
 ――僕らにも、責任があるかもしれないな。昔から理子は、手のかからないお姉ちゃんで……
 父は懐かしむように、目を細めてそういった。
 ――小さいころから、教えてもらったことは、たいてい一度でできたし。誰にも教えてもらわなかったことでも、いつの間にか、自分で工夫して、一人でできるようになっちゃう。そういう理子の出来のよさを、僕らは喜んで、自慢に思ってきたけど……
 父はそこで、言葉を切った。
 その話はそこまでで、父はその日、だからどうしなさいとはいわなかった。もっと人に頼ってみたらいいとか、そういうような助言は、一言もなかった。
 わたしも父に対して、だったらどうしたらいいのとは訊かなかった。なるほど、たしかにわたしは、人に頼るのがへたなのかもしれない。
 それでも父に対しては、ほかの誰に対するときよりも、素直に話をしていたような気がする。あかりのように、正面きって甘えにいくことは、ほとんどなかったけれど。
 もっと後になって、一度も恋をしたことがないのだと、大宮さんに信じてもらえなかった、あの日の夜にも、わたしは父の書斎をたずねた。
 大宮さんとのやりとりを話して聞かせると、父は目を細めて、ゆっくりといった。
 ――生涯、恋をしない人だっている。若いうちにはなくても、ずいぶん年をとってから、初めて恋をする人もいるよ。気に病むようなことじゃないさ。
 その言葉の後半は、おそらく父自身のことなのだと、直感的にそう思った。そして、わたしがそう思ったことを、父も察したようだった。
 父は困ったようにちょっと笑うと、手もとにおいていた本の表紙を、ゆっくりと撫でた。
 ――ねえ、その人は、いまはどうしてるの。
 ――さあ。どうしているかなあ……
 ごまかしているのではなく、本当に知らないように、わたしには思えた。そして、そのときの父の細めた目や、声の調子からは、いまも父がその相手を、心のどこかで大切に思っているのだと、そういう気がした。
 いまにしてみれば、わたしはやはり、薄情な娘なのだろう。そのとき、母が可哀相だというようなことを、考えつきもしなかった。
 ――ねえ、その人が、もし元気でいて、目の前にあらわれたら、お父さん、その人のところにいったりする?
 深く考えることもなく、わたしはそう聞いていた。
 ――まさか。昔の話だよ。
 父は目を丸くして、軽く笑い飛ばした。それは、子どもを安心させるための笑顔だったのかもしれないけれど、わたしには、父が本心からそういっているように見えた。

 ヒィー、ヒィーと、口笛のような音がして、思わず周囲を見回した。それは、トラツグミの声のように聞こえた。南の土地ではどうだかしらないが、いままでこんな寒い季節に耳にしたことはなかった。
 見上げても、近くの樹上にその姿を見つけることはできなかった。
 この場所は、いったいなんなのだろう。
 改めて見渡せば、細い砂利道だけが延々と続くこの道が、草木に埋もれてしまうこともなく、絶え間なく人の足に踏まれていることが、奇妙なような気がした。観光地化された神社だとか、登山道だとか、そういう場所ならわかる。けれど道には案内板のひとつもなければ、鳥居が並んでもいなかった。
 そもそもわたしは、なぜここにやってきたのだったか。
 いくら考えても思い出せず、首を振った。今夜、どうしてもこの上に登らなくてはならないと思ったのは、いったいなぜなのか。
 わからなかった。ただ、何かを探すために、この場所にいるのだと、そういうような気がした。
 でも、何を?
 その疑問に答えるかのように、ふいに、父の穏やかな微笑みが目の前に蘇った。

 父が突然姿を消したのは、わたしが大学を卒業する直前のことだった。
 母は慌てふためいて、父の身を心配する一方で、よその女と逃げたのではないかと、どこかで疑っているようだった。あかりは母以上に取り乱して、きっと父はなにかの事故か、事件に巻き込まれたにちがいないと、そう強くいい張った。
 動転している二人をよそに、わたしには、その日が来たるべくして来たというような、そんな気がしていた。父もわたしと同じで、ときどき人との関わりが、ひどくわずらわしく思えるような、そんなところがあったから。
 父が家族を大切に思っていなかったとか、他人をないがしろにしていたとか、そういうことではない。それでも父にはときどきふっと、何もかもが息苦しくなって、誰もいないところで一人きりになりたいような、そういう衝動に駆られる瞬間が、あったようだった。
 それだって、父の言動や表情の端々から、わたしがそう感じていたというだけで、確証のあることではなかったのだけれど。
 ――お姉ちゃんは、心配じゃないの?
 あかりは目を真っ赤にして、わたしをなじった。
 ――心配だよ。
 ――だったらどうして、そんなふうに、
 あかりは怒鳴りかけて、途中で言葉を飲み込んだ。それからなにかを諦めるように、ふっと視線をわたしから外して、震える母の肩を抱いた。
 どうしてそんなふうに、平気そうな顔をしているのかと、あかりはそういいたかったのだろう。
 まるで平気というわけではなかった。父は自分で姿を消したのではないかと、なんとなくそういう気はしていたけれど、事件や事故の可能性に、目を瞑ったわけではない。わたしだって不安だったし、心細かった。
 そう、口に出していえばよかったのだろうか。だけど自分が、母やあかりと同じくらい、強く父を心配していると、そう言い切ることはできなかった。そうすると、もう何をいっても言い訳にしかならないような気がして、わたしは口をつぐんだのだった。
 日にちが経っても警察からは何もいってこず、手がかりひとつないまま、やがて季節はひとつずつ、確実にめぐっていった。

 風が強くなってきた。
 木々の枝葉が、潮騒のような音を立て、ときおり木の葉や細い折れ枝が、宙を舞う。さっきまでうるさいようだった鳥の声が、いまはちっとも聞こえない。
 風に吹かれて、雲が出てきたようだった。月に薄雲がかかって、足元が暗い。提燈を借りてきていなければ、このあたりで立ち往生していただろう。あのお婆さんには、天気が崩れることがわかっていたのだろうか。
 角度のきついカーブを折れたところで、暗い道の先に、オレンジ色の光が見えた。わたしがいま手に持っている、鬼灯の提燈と、それは、同じもののように見えた。揺れながら、ゆっくりと移動している。
 近づいてみると、先客は、年老いた女性だった。染めていない真っ白い髪を束ねて、昭和のドラマの中でしかみないような、割烹着に身を包んでいる。
 追い抜くべきかどうか、迷った。わたしも道行きを急いでいるというわけではないのだけれど、お婆さんの足は遅く、だまって背後について歩くのも、おかしなことのように思われた。
 迷い迷い近づいたところで、お婆さんはわたしに気がついて、会釈してきた。
「ああ……ごめんなさい。そちらは、どなたが?」
 それは穏やかだけれど、どこか、悲しみに枯れたような声だった。
 質問されていることの意味がわからず、わたしはさあ、と首を傾げた。お婆さんはそれを変だとも思わないようで、そう、と相槌をうつと、何かを勝手に理解したらしく、何度も小さく頷いた。
 短いものでも、言葉を交わしてしまえば、知らないふりで追い抜いていくのも、気が引けるような気がした。それでなんとなく、わたしはお婆さんの横に並ぶようにして、ゆっくりと歩いた。
「ある日、ふらりといなくなったんですよ。もう、ずっと前のことなんですけどね」
 お婆さんの落とした言葉に、どきりとした。とっさに、父のことかと思って。
 けれどそうではなかった。夫がね、と、お婆さんは言葉を継ぎ足した。
「ずいぶん悩んでいたようだったから。もしかして、って」
 部下の方が過労で亡くなってね、と、お婆さんは淡々とした調子で続けた。
「それが、まだ若い人でね。自分が死なせたようなもんだって、ずいぶん気にしていたんですよ。でもねえ、だからって」
 お婆さんはそこでぶつりと言葉を切って、立ち止まった。登り道は、急勾配というほどではないけれど、ずいぶんと腰の曲がったお婆さんだから、疲れたのかもしれない。
「あなたのせいじゃないって、ずいぶんいったんですけどねえ」
 なんでそんな話を、わたしみたいな見知らぬ他人にするのか、わからなかった。それでも、口をはさむのはためらわれて、わたしはじっと、話の続きを待った。
 しばらくの間のあとに、お婆さんはいった。
「もしかして、って。気をつけて、見ていたつもりだったんですけどねえ。もう大丈夫だろうと思った矢先に、居なくなって。心配するなって、置手紙だけ。それきりもう、十年以上」
 さっきの男の人たちのような必死さは、そのお婆さんにはなくて、そのかわりのように、擦り切れたような悲しみが、細い声を包んでいた。
「長年、一緒に暮らしてても、肝心なときに、分からないものですねえ」
 その言葉に、わたしははっとした。
 父がいつかいった言葉を思い出していた。それが一緒に暮らしている家族でも、大切に思いあっていたとしても、自分以外の人間は、結局はみんな、他人なのだと。
 だけど、お婆さんにその話をする気にもなれなかった。やがてお婆さんは、ふっと息を吐き出して、わたしの顔を振り仰いだ。
「ごめんなさいね。こんな話をお聞かせして。……あなたもご心配でしょう。どうぞお先に」
 お婆さんはかすかに微笑んで、そういった。わたしが何を心配しているというのだろう。このひとは、何か知っているのだろうか。
「わたしはもう少し、ゆっくりいきます。……もうずいぶん経つのに、お恥ずかしい話ですけれどね、まだ、確かめる勇気が、出てこないんですよ」
 お婆さんは恥じるようにそういって、曲がった腰をさすった。ためいきをついて、目頭を揉む。その手の皺を、わたしはじっと見つめていた。
 こんな夜更けに、お年寄りをひとり、夜の山道に残していくのは、気がひけた。それでも、お婆さんにとっては、わたしがいたら邪魔なのだろうかと、そういう気がして、結局、わたしはひとりでふたたび、道を登り始めた。
 道々、何度振り返っても、お婆さんがそこから歩き出す気配はなかった。

 僕に似ちゃったんだねと、父はいつか残念そうにいったけれど、母もまた、わたしは父によく似ていると、常々口にする。
 それには性格的な部分もあるし、外見も、わたしはどちらかというと父に似た。目元や唇の形なんかは、まるきり同じ形をしている。
 それに、そう、あれは中学生の頃だった。わたしの左のわき腹、あばら骨の一番下だけが、成長とともにだんだん飛び出してきたので、なんとなく不安になって、これは何かの異常だろうかと、母に相談したのだった。母はあら、と目を丸くして、可笑しそうに笑った。
 ――そんなところまで、似るものなのね。お父さんも、おんなじようにそこの骨だけ、ほかより飛び出してるのよ。
 その母は、父が行方不明になったあと、あかりとちがって、わたしがあまり父の身を案じていないことを、責めるようすはなかった。
 ――理子は、どう思う? お父さん、どうしていなくなったんだろうね。
 あかりのいない二人だけの夜、母が唐突にそう聞いてきたのも、そのせいだろう。わたしなら、父の考えが何か分かるのではないかと、そんなふうに考えたのだ。
 ――わからない。
 わたしは首を振った。自分の考えを素直にいうのが、気が引けて。
 それに、本当に父が自分の意思で姿を消したのだといいきるほどの、確信はなかった。家族でも他人だという、父の言葉が、いつでも頭の片隅にあったので。
 ――そう。そのうち、ふらっと帰ってきたらいいんだけど。けろっとして、さ。
 母はそういって、無理に笑ったけれど、本気でそう信じているわけではないのは、すぐにわかった。母はやはり、父の身に何かあったと考えているのだ。
 ほかの女と逃げたのではないかと、父を疑っているのではなくて、せめてそうだったらいいと、母はそんなふうに思っているのだった。父がなにかの事件に巻きこまれて、すでにいないと思うよりは、まだそちらのほうが、母には辛くないのだろう。わたしはそのときになって、ようやくそのことに気がついた。

 ふっと、あたりが暗くなった。
 どきりと跳ねた胸を押さえて、空を仰いだ。月はすっかり厚い雲に覆われて、山は先ほどまでの明るさが嘘のように、暗闇に沈んでいた。
 前触れもなく、鬼灯の火がひどく揺れて、右手の藪を照らした。それが、風にかき乱されているわけではなく、自分の意思でそちらを示しているかのように、わたしの目にはうつった。
 こみ上げてきた正体のしれない不安に胸をつかまれて、視線をさまよわせるけれど、鬼灯が照らす藪の方向以外は、何もかも、深い闇に沈んでしまっていた。
 何かひどく、厭な感じがした。
 このまま引き返したほうがいい。直感的にそう思ったけれど、わたしの足は、凍りついたようにその場から動かなかった。
 誰かの足音が耳に入って、我に返り、それでようやく足が動くようになった。道の脇によけてじっと待つと、不規則な足音は、ふもとのほうからゆっくりと近づいてきた。
 やがて、オレンジ色の灯とともに、徐々にすがたをあらわしたのは、若い男の人だった。見覚えのあるジーンズ姿。さっき追いこしてきた、柄の悪そうな人だ。
 思わず息を詰めて顔を伏せていると、その人は、血走った目を上げて、わたしをじっと睨んだ。
「あんたは、見つけたのか」
 とっさに、返答に詰まった。この人は何を知っているのだろう。わたしがいったい、何を見つけたというのだろうか。
 だけど、頭の片隅では、なんとなくわかっていた。この藪の奥にあるもののことを、この人はいっている。
 わたしは答えなかったけれど、その人は、勝手に察したのだろう。頭をがりがりとかきむしって、低く毒づいた。
「くそっ。どうしてだ……」
 ひとしきり首を振ると、その人は、急に興味をなくしたように背を向けて、さらに上のほうへと向かっていった。
 その足音が聞こえなくなるのを待って、わたしは暗闇の中を振り返った。鬼灯の火はかわらず、同じ場所を指し示している。
 見ないほうがいい。
 自分の中から湧き上がる声を、つとめて無視して、わたしは藪に足を踏み入れた。枯れ枝が騒々しく音を立てる。何か小さな虫が、顔に当たって、あわてて逃げていった。
 いくらも歩かないうちに、壁のように目の前にそびえ立つ、太い樹の幹があった。何百年もそこにあるに違いない、立派な大木だった。
 わたしは鬼灯に導かれるように、その樹を回り込んで、そして、息を呑んで足を止めた。
 樹の根元が、深く、掘り返されている。
 あかりだ、と、とっさに思った。さっきすれ違った妹の、土に汚れた手、それから、ひどく疲労したようす。
 驚くほど深く掘られたその地面の穴の、すぐ脇で、白っぽいものが、提燈のあかりを弾いた。
 わたしは強ばった手をゆっくりと動かして、提燈を地面に寄せた。
 ずっとむかし、小学校の理科室にあった標本の骸骨を、クラスの男子がふざけあっていて、ばらばらに壊したことがあった。床に散らばった、色々な形の骨。
 それによく似たものが、樹の根元に、ひとかたまりになっていた。
 その骨は、土にまみれて、ところどころには何か破れた布のようなものが、絡みついていた。
 その真ん中に、出刃包丁が、錆びた刃をむき出しにしていた。
 言葉を失ったまま、吸い寄せられるように手を伸ばした。どうしてその場から逃げ出そうとしなかったのか、自分でもよくわからない。ただ冷たく痺れた手が、無意識に、その中に伸びて、肋骨と思われる部分を探っていた。
 わたしの指は、すぐにそれを見つけ出した。一本だけほかよりも曲がって飛び出した、あばら骨。
「お父さん……?」
 自分の喉から漏れたのは、まるで、他人の声のようだった。
 混乱した頭を振って、骨から視線を逸らすと、樹の根元の穴の中にも、白いものが掠めた。ぎくりとして、一度は目を逸らしたけれど、思いとどまって近づき、恐る恐る、穴の底を覗き込んだ。
 そこにあるのは、おそらくはもうひとりぶんの、人骨だった。
 提燈をかざして目を凝らすと、その穴の底の骨には、頚椎と思われる場所に、ロープが絡み付いていた。
 父はどこかの女と逃げたのではないかと、そうほのめかした母の、震える唇の端を思い出した。それから、父が年をとってから初めて経験したという、恋の相手のことを。
 顔も知らないどこかの女性が、父を刺したあとに、首を吊って命を絶つ、その光景の一部始終が、目蓋の裏に浮かんで通り過ぎていった。
 目の前の骨と凶器と、その連想とを結びつける、何のたしかな根拠もなかった。けれど、まるでわたしの想像を肯定するかのように、鬼灯の火がゆるやかに瞬いた。
 がつっと、とつぜん鈍い音がして、腕が痺れた。
 見下ろす土が、えぐれている。自分の手が激情に任せて地面を殴りつけているのを、どこか他人事のように、わたしは見た。
 喉から迸るわめき声を、自分が上げているということも、はじめは信じられなかった。
 地面にたたきつけた拳は、少しも痛くなかった。ただ重く、痺れていて、そのかわりのように、喉がひどくひきつれて、肺の奥がきりりと痛んだ。
 朽ち葉に半分埋まるようにして、なにか銀色のものが光を弾いた。わけもわからないうちに掘り起こすと、それは、父が本を読むときによくかけていた、眼鏡だった。
 お父さん。お父さん。お父さん。
 気がふれたように叫びつづける自分を、どこか遠くから見下ろすようにしていた。悲鳴のような、嗚咽のような声は、月のない夜の闇に、どこまでも吸い込まれていき、消えていく端から、また喉を震わせてあふれた。
 自分がそれほどまでに激しく悲しんでいるということが、嘘のようだった。何年ぶりに流すかわからない熱い涙が、頬を伝っていくうちに冷え、顎から父の骨の上に、音を立てて落ちる。
 ――いらない、と、胸の底から迸るように、そう思った。
 こんなものが、こんなことをするのが、人を愛するということなら、そんな思いはいらない。人を愛することの結果が、この光景だというのなら。こんなことが……。
 それなら、生涯だれのことも愛せないままでも、そのほうがいい。ずっといい。
 けれど、そう叫ぶ同じ心のもう一方で、それほどまでに激しく他者を求める、その執着を、焼け付くように羨ましいと感じているもうひとりのわたしが、たしかに息を潜めているのだった。
 
(終わり)

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