雨の夜をゆく へ  小説トップへ  月明かりの下で へ


 夜の参道は暗かった。
 空を覆う分厚い雲のせいだ。雨の気配はないが、灯篭のないところでは、道は完全に暗闇に沈みこんでいて、足元が見えない。
 しかたなく、ふもとの提燈屋に声を掛けた。でかい鬼灯を棒に吊るしただけの、しみったれた提燈が、竹組みの台にずらりと吊るされている。骨と皮しかないような婆さんが、倒れた灯篭に腰掛けて、小刀で竹を削っていた。
 婆さんは作業の手を止めて、落ち窪んだ眼を上げた。
「また、あんたかね」
 嗄(しわが)れた声だった。その骨ばった手から、提燈をひったくるようにして受け取ると、婆さんはふんと鼻を鳴らして、手仕事に戻った。それきり顔も上げない。小刀でこそぐようにして竹を削る、その単調な動作が、提燈の灯りに照らされて、地面に不気味な影絵を落としている。
 舌打ちを残して、その場をあとにした。吊るされた提燈が投げる光に、背後から照らされて、自分の正面に伸びた影を踏みながら歩く。その明かりもじきに遠のいて、もとの暗闇がおりてきた。
 一つ目の灯篭を過ぎたところで、前方に誰か、提燈を持った人影が、足を引き摺って歩いているのに気が付いた。
 しゃれっ気のない刈上げ頭が、灯篭の明かりにぼんやりと照らし出されている。背が高い。足取りはおぼつかないが、背筋はまっすぐに伸びていた。
 その髪型と体型が、知っている奴に似ていた。
 まさか、と思ったときには、砂利を蹴散らしながら、男を追いかけていた。
「おい、高柳!」
 叫んでも、相手は振り返らない。足取りを緩めさえしなかった。かっとなって、無理に走る速度を上げると、砂利が滑って、足がもつれた。
 息を切らしながら、そいつのすぐ背後まで近づいたところで、唐突に、まったくの別人だと気が付いた。
「くそっ」
 悪態をついても、前を行く男は気づきもしない。周囲の物音など、耳に入ってさえいないようだった。
 腹立ち紛れに、砂利を蹴っ飛ばす。男は無反応のまま、黙々と歩いていく。
 その背中が小さくなって、闇の向こうに溶けて見えなくなるまで、その場で立ち尽くしていた。
 はあっと大きく溜め息をつくと、急に馬鹿馬鹿しくなった。気を取り直して、自分も参道を上り始める。
 急いだほうがいい。夜は長くはない。

 高柳颯人が同い年だと知ったのは、やつと同じCD屋でバイトを始めて、二年も経ってからだった。それくらい、高柳は自分の話をしなかったし、あいつの態度は落ち着いていて、実年齢よりも、三つか四つは確実に老けて見えた。
 無口で、とにかく何を考えているのか、分かりづらいやつだった。客に話しかけられれば、几帳面に対応する。だが、とにかく普段が無愛想だった。何をいわれてもちらりとも笑わないし、無駄口ひとつ叩かない。
 それでも高柳の仕事ぶりは真面目だったし、ほかのバイトが嫌うような雑用もいやがらず、誰かに頼まれれば、いつでもシフトを代わってやっていた。誰のことも馬鹿にしないし、自分からは喋らなくても、人から話しかけられたときには、律儀に話を聞く。だからあいつは、バイト仲間から遠巻きにされつつも、嫌われてはいなかった。
 ――なあ、お前、美人のねーちゃんとか妹とかいねえ?
 そのときはちょうど、女と別れたばかりだったし、バイトはいつもつまらなかった。だから、たまたまシフトの重なった高柳に訊いてみたのには深い意味はなくて、何か面白いことはないかというくらいの、ほんの気まぐれだった。
 ――いや、家族はいないんだ。
 高柳の返答は、ごく淡々としていた。その横顔を見た瞬間、唐突に、自分の内側から怒りがこみ上げてきた。
 ――そうかよ。つまらねえな。
 そう吐き捨てて、顔を背けた。自分が何に対してそんなに苛立ったのか、そのときには、自分でも分からなかった。
 それ以来、しばらく俺は高柳を避けた。虫が好かない相手と思えば、すぐに手が出る自分の性分を、嫌になるほど思い知っていたからだ。もっとも、それまでだって高柳とは、仕事上の事務連絡を除けば、数えるほどしか口を利いたことがなかったのだが。
 あいつはあいつで、どうして俺が急に怒ったのかだとか、そういうことを気にするそぶりは、ちっとも見せなかった。
 随分あとになってから、ようやく少し、分かった気がする。身寄りがないといったときのあいつの口調は、寂しそうでもなければ、強がるというふうでもなく、ごく淡々としていた。そのことに俺は、腹が立ったんだろう。
 女がいるような素振りもなく、ダチとつるんでいるところも見かけない。定職にもつかず、つまらないバイトなんかやっていて、それなのに、自分の現状に、焦るようすも見せない。高柳の飄々としたようすが、いつでも何かに苛々している自分と、あまりに違うことが、思えば、勘に障ったのだった。
 一度、何かの拍子に弱気に駆られて、お前は先のことが不安になったりはしないのかと、高柳に訊いてみたことがあった。あいつはそのときも、ごく淡々とした調子で答えた。
 ――独りで食っていくだけだったら、なんとでもなるだろう。

 見覚えのあるような、太くねじれた樹が目に付いて、はっと顔を上げた。
 ずいぶんと坂を上ってきた。この辺りまで来ると、もう周囲に灯篭はない。月明かりのない今、提燈を持った自分の周囲以外は、完全な暗闇に包まれている。
 どこか遠くで、鳥が、かん高い声で鳴いた。小動物が逃げるような気配がして、茂みが忙しなく鳴る。
「……ここ、なのか?」
 ごくりと唾を飲み込むと、その音が、夜の山にやけに大きく響いた。冷たい汗の滲む手のひらを意識しながら、道を逸れて、茂みに分け入った。
 提燈を手にかがみこんで、灯りを地面に寄せる。小さな百足が一匹、体をくねらせて逃げていった。
 見る限り、その場所には何もなかった。
 下草を掻き分けて、土がむき出しになっているところに手を触れると、雨も降っていないのに、土は湿って、ひやりとしていた。
 尖った雑草をかきわけ、小さな切り傷を作りながら、樹の周りを一周したが、どこも同じだった。それでも諦めがつかず、分け入って地面をさぐりさぐり、範囲を広げてもう一周すると、その滑稽な様子を笑うように、提燈の灯が小刻みに揺れた。
 ため息を落として道に戻ると、誰かの足音が、ふもとの方にむかって、ゆっくりと遠ざかっていくところだった。不規則な、よろめくような足取り。
 闇に沈んで見えないその足音の主を、睨みつけるようなつもりで、暗闇を凝視していると、去っていく方向から、細く、すすり泣きが聞こえた。
 声からすると、女のようだった。多分、もうあまり若くない。呻くような涙声の合間に、誰かの名を呼ぶ調子が混じる。
 去った男への未練だと、聞いただけですぐに分かるような、そんな声音だった。
 耳にした瞬間、わけもなく苛立ちがこみ上げてきて、思わず目が眩んだ。誰だか知らない女を追いかけていって、引き摺り倒してやりたいような衝動を、拳を握り締めて、じっと噛み殺す。
 女の声が完全に、闇の向こうに途絶えてしまうのを待って、提燈を持ちなおした。足を地面から引き剥がすようにして、どうにか一歩を踏み出す。
 見上げる空はかわらず暗く、行く手の闇は深い。

 親父が出ていった日のことは、覚えていない。それどころか、親父の顔も声も、何一つ記憶になかった。物心ついたときには、隙間風のうるさい安アパートで、いつも帰りの遅いお袋を待っていた。
 お袋は、帰ってこない日もあった。そんな夜には、いつの間にか疲れて眠りに落ちるまで、電気を点けたまま居間にいて、畳の上で、じっとうずくまっていた。
 そしてお袋は、家に帰ってくるときの、何回かに一回は、俺の顔をみて鼻の頭に皺を寄せた。
 ――まだ起きてたの。先に寝てなっていってるのに。
 酒の匂いをさせたお袋は、面倒くさそうにそういうと、俺に小銭を握らせる。
 ――しばらく外にいってな。
 お袋の後ろから入ってくる、前にも見たような見ないような男と、視線を合わせないようにしながら、俺は錆の浮いたドアをすり抜ける。
 深夜の住宅街だ。小銭なんて持たされたところで、どこに行く場所があるのかと、今なら怒鳴るだろうが、ガキの頃の俺は、そのたびに素直にアパートの軋む階段を下って、馬鹿の一つ覚えのように、近くの自動販売機まで出かけていった。
 夏はまだよかった。真冬の、雪でも降り出しそうにぴんと張り詰めた空気の中、白い息を吐きながら、きまりきったことを一人で喋る自販機に小銭を投げ込んで、何か温かい飲み物を買うと、その近くの家で飼われている犬が、いつも神経質に吠え立てた。
 手の痺れるように熱い缶を握り締めて、帰らなければいいのに、俺はアパートの前まで戻る。
 年季の入ったボロアパートの、ひどく薄い壁に凭れていると、床の強く軋む音が強まったり弱まったりしながら、背中にじかに響いた。
 とぎれとぎれに耳に飛び込んでくる、お袋の艶めいた声は、笑い含みのこともあれば、途中で悲鳴に変わることもあった。そこに何かを殴るような物音が混じることも、珍しくはなかった。
 耳を塞ぎもせずに、俺はじっとそれを聞いている。白く凍る息を見つめ、だんだんぬるくなっていく缶を膝に挟んで、少しでも寒さをしのごうと、小さくなっている。
 馬鹿だったから、どこか物音の聞こえないところまで離れていればいいのに、そのうちいつかお袋が、男たちの誰かに殺されるんじゃないかと思って、いつもじっと、壁越しの音に耳を澄ましていた。
 何でそんな馬鹿なことをしていたんだろう。もしいつか、本当にそうなっても、助けに飛び込むつもりなんて、ちっともなかったのに。
 ただ、もしお袋が本当に、殺されてしまうようなことがあったら、そのときはせめて近くにいて、お袋を看取らなくてはならないと、そんなようなことを、漠然と考えていた。いったいなんでそんな風に思い込んだのか、いまにして思えば自分でも分からないが、その頃は、真剣にそう思っていた。
 一時間か二時間か、ときにはもっとだっただろうか。時計も持たず、寒さに震えながら待つ時間は、いつだって途方もなく長かった。
 近所の連中は誰も、係わり合いになりたくない風で、ごく稀に、夜更けに帰宅してくる住民がいても、廊下にうずくまる俺をちらりと見下ろして、いやなものを見たという顔をするぐらいが精々だった。
 それでも一度だけ、二部屋となりの、いま思えばお袋と同類だろう水商売風の女が、ひょいと廊下に顔を出して、同情したふうに菓子を握らせてくれたことがあった。女の顔は、もう忘れてしまったが、ポケットに突っ込んで、食べもしないまま溶けさせたチョコレートの、甘ったるい匂いだけが、いつまでも記憶にこびりついている。
 ――もう入ってもいいよ。
 お袋が戸口から顔をのぞかせて、機嫌をとるような声でそういうのを聞いても、俺はすぐには立ち上がらない。その晩の男が、身支度をして外にでて、その背中が遠ざかり、すっかり見えなくなってから、ようやく俺は部屋に戻る。そうでなければ、どれだけ寒くても、部屋の外でいつまででもうずくまっていた。
 ――ったく、可愛げのない子だね。
 そういう俺の強情に、お袋はよく腹を立てた。男が帰りそうもないとき、お袋は音を立てて戸を閉めたかと思うと、もう一度だけ出てきて、自分のコートを俺に放り与え、またすぐに引っ込んでしまう。
 そんなふうにして、男が泊まっていくときには、俺は朝まで外の壁に凭れて、知らない男の鼾を数えていた。お袋のコートにくるまって、それに沁みついた香水の匂いをかぎながら、一晩中うつらうつらして、膝を抱えていた。

 ごう、と風が吹いて、木々の梢が喧しく鳴った。雲がさっと流れて、一瞬、満月が薄雲ごしに顔を出す。
 薄明かりに照らされた先、道の真ん中で、若い女がうずくまっていた。足元に散った白い塊を、かき集めては撫でながら、ひきつれるような声を上げて泣き喚いている。
 これだけ大声で泣いている女の存在に、今の今まで気づかなかった。それでも、もう俺はそれを不思議とも思わなかった。ここはそういう場所なんだろう。
「ゆうた、ゆうた、どうして。なんでなの、なんであんたが」
 どこの誰だか知らない男の名前が耳に飛び込んだ瞬間、激しい苛立ちに襲われた。何に腹を立てているのか、自分でもよく分からないまま、道を塞いでいる女の足を蹴る。
「どけ、邪魔だ」
 女は一瞬、鬼のような形相で俺のほうを振りあおいだが、知らない男のことなどすぐにどうでもよくなったらしく、またばらばらの白骨に縋って、泣き続けた。
 行き場のない怒りを噛み殺しながら、その横をすり抜けた。すれ違い際に目を向けると、女が抱き締めているその骨は、どれもやけに小さかった。
 子どもなのだろう。
 そのことに気が付いた瞬間、苛立ちが急に冷えて凝って、腹の底に落ち込んだような気がした。
 とっさに立ち止まっていた。何かいおうとして、口を開きかけたが、いうべき言葉なんか何も思いつかなかったし、女はもう俺のことなど、眼中にないようだった。こみ上げてきた気まずさを飲み込んで、その場をあとにすると、暗闇の中をどこまでも、すすり泣きの声が追いかけてきた。
 歩きだせば、じきに暗闇が降りてきた。月は再び、雲の向こうに隠れてしまったらしい。
 大声で泣きながらガキの骨を抱く女の、月明かりに浮かび上がった白い手が、いつまでも残像になって、瞼の裏に残っていた。
 しばらくそれをふり払おうと、頭を振りながら歩いていたが、やがて視界の端を過ぎった樹の形に、息を呑んで立ち止まった。
 提燈をかざして目を凝らすと、そこはさっきとよく似た場所、見覚えのあるような地形だった。
 自分の息が荒くなっている。そのことに気が付いて、唾を飲み込んだ。
 今度こそ。
 道から逸れて、提燈で藪を照らしながら、朽ち葉の積もる土を、震える手でゆっくりと掻き分けていった。汗まみれの手に、泥だの小石だのがこびりついて、鬱陶しい。
 だが、その場所にも、何もなかった。
「なんでだよ……」
 諦めきれず、提燈を地面において、何度も辺りを手で探った。何か小さな虫が、手の上を這っていくのを振り払い、手探りで前に進む。踏み入りすぎて、道が見えなくなりそうになったところで、ようやく我に返った。ここではないのだ。
 髪をかきむしって提燈を拾い、もとの道に戻ると、どこかで鳥が、軋むような音を立てて鳴いた。

 豪雨にみまわれて、客の少ない晩だった。
 そのときのシフトでは、俺と、右田って十代のガキと、高柳の三人が店内にいた。
 高柳はいつだって陰気に黙り込んでいるが、右田は逆に、うるさすぎるくらいによく喋る。アマチュアバンドのギターをやっていて、楽器代とスタジオ代を稼ぐためにバイトをしている右田は、口では色々と大言壮語を吐く割に、肝心のギターの腕はまるで子ども騙しという、どこにでもいるようなガキだった。
 その右田が、客が少ないのをいいことに、女は家庭的なのがいいだの、ぜったいに男の子が二人は欲しいだのと、タトゥーだのピアスだので派手に飾り立てた外見に似合わないことを、延々と喋り倒していた。
 ――うるせえよ、右田。
 注意すれば、そのときはすんませんといって黙るのだが、またすぐに忘れて喋りだす。そういうときに限って、間の悪いことに、いつまでも店は混まない。
 いい加減に我慢が切れて、殴り倒そうかと思った頃に、高柳が珍しく、無駄口をきいた。
 ――家族がいるほうが幸せだとは、限らないさ。
 ぼそりと呟いた声は小さすぎて、肝心の右田の耳には届かないようだった。絶好調で喋り続けるドリーマーは、話の中ですでに妄想の嫁との間に二男二女をもうけて、ついでにCDもバカ売れしてでかい家を建てていた。喧しいことには違いなかったが、毒気を抜かれたとでもいうのか、右田への腹立ちは、いつの間にか醒めていた。
 高柳の、いないという家族は、何もはじめからいなかったわけではないのだろうということを、そのときに初めて、ぼんやりと考えた。
 だからどうということもなかったが、なんとなくそれ以来、たまに高柳と話すようになった。
 話すといっても、高柳は仕事中には無駄口を叩かなかったし、つるんで飲みにいったりすることもなかった。誘えば断らなかったかもしれないが、俺は酒が嫌いだし、あいつと長い時間二人で顔をつきあわせたって、話が盛り上がるとも思えなかった。だから話といっても、何日かに一度、同じシフトに入ったとき、出勤時や帰り際の、ロッカーで制服を着替えるわずかな時間だとか、店を出て道が分かれるまでの、ほんの一、二分のことだ。
 それも、仕事の愚痴か、世間話に毛の生えたような会話がせいぜいで、詮索めいたことは聞きたいとも思わなかったし、身の上話をする気にもなれなかった。
 だから、俺が高柳について知っていることは、その後もたいして増えなかった。好きな音楽の話が少しと、高柳が歩いて通勤しているということ、前には陸上をやっていたらしいこと、せいぜいそれくらいのものだ。このあたりの出身じゃないらしいというのは、聞きだしたのではなくて、わずかなイントネーションの違いと、県内の地理に疎いような節があったことから、なんとなく察した。それから、自分と同い年だということも、この頃にようやく知った。
 ――マジかよ。見えねえよ。
 老け顔をからかうと、高柳は気を悪くするでもなく、そうかと呟いて、片手で顔を撫でた。
 ――なんだ、お前ら、このごろ仲いいな。
 店長が通り過ぎざまに投げていったそんな言葉を、おっさんどこに目がついてるんだと、そのときには笑い飛ばしたが、あとになって考えてみれば、たったそれだけの会話でも、そんな風にいうくらい、高柳がほかのやつと親しくしている姿を見なかったということなのだろう。

 どさりと、何か重いものが落ちるような音がして、とっさに身を竦ませた。だが、辺りを見渡しても、手の提燈が照らすわずかな範囲以外は、真黒に塗りつぶされている。
 音は一度響いたきりで、あとはしんと静まり返っている。吹き付ける生ぬるい微風に、頭上で木々の葉擦れがするだけだ。
 人の体を投げ落としたときに、こういう音がしないだろうか。
 その考えは、暗闇の中で一度頭に浮かぶと、なかなか消えてはくれなかった。
 鬼灯を高く掲げても、照らせる範囲は知れている。音はどの方向から聞こえてきただろうか。遠かったような気もするし、あらためて思い出そうとしてみれば、ひどく近かったような気もした。
 いつの間にか早くなっていた呼吸を、それでもどうにか整えて、足を踏み出す。
 ほんの数メートル先で道がどうなっているかも、暗闇に沈んでわからない。足元を照らしながら慎重に足を進めていくと、途中から、道がきつくカーブしていた。
 その先に、火の入ったままの鬼灯がひとつ、落ちていた。
 地面の上の提燈が作る、淡い灯りの輪の中に、誰か倒れている。音の正体は、これだったのか。
 近づいてみると、それは、ひどく痩せこけた爺さんだった。着ているものは、薄い水色の、どうやら入院着のように見える。
 その足元には、たったいま掘り起こしたものらしい、泥だらけの白骨が散乱していた。
「おい、爺さん」
 近くに寄って呼びかけると、爺さんは胸元を押さえながら、苦しげに呻いた。死んではいなかったらしい。顔は青ざめているが、呼びかけに反応してぎょろりと動いた目は、意外としっかりしていた。
 爺さんはよろよろと起き上がると、俺の手を振り払い、白骨をかき抱きながら、吼えるように泣いた。
 そこらで鳴いていた虫が、驚いたのだろう、声をぴたりと潜めた。暗闇の中に、爺さんの嗚咽だけが響く。
 それが、あんまり身も世もない泣き方だったせいで、さすがに気の毒なような気がして、すぐに立ち去れなかった。だからといって、何かかける言葉を思いつくわけでもなくて、いっときの間、ただ、嗚咽に耳を傾けていた。
 爺さんは、いつまでたっても泣き止む気配がなかった。
 しばらく待ってみたが、やがて仕方なく、そのやせ細った体の横を通り過ぎて、暗闇の中を歩き出した。目の前で誰かが死にそうになっているとでもいうなら、なにか手を貸せることもあるかもしれないが、もうとっくに骨になった相手に、何ができるわけでもない。
 遠ざかっていく泣き声に追われながらの道行きは、それまで以上に足が重かった。

 ――おおい、誰か付き合えよ。
 バイト先の店長は、何をするにもやる気のないようなおっさんだが、たまに突然思い立って、早番の連中に、飲みにいこうと声をかける。それは大抵、やつが家で面白くないことがあった日だ。
 つまらない家庭の愚痴に付き合わされるのを嫌がって、ついていく奴は少ない。ただ一人、高柳をのぞいては。
 愛想を売るわけでもないのに、誘われればあいつは、めったに断らなかった。その日も高柳だけが、店長の誘いに乗って、どこかの居酒屋についていった。
 連れ立って店を出る二人を見送りながら、俺は苛々していた。
 店長のおっさんは、そもそもお袋の店の常連客だ。高校を中退したきりぶらぶらしていて、素行もよくなかった俺を、それでも店に置いたのは、お袋に頼まれたからだ。
 あいつらが連れ立って、お袋の店に行くかもしれないと思うと、それだけでわけもなく気分が悪かった。だからといって、ついていくなと高柳を止めるのも、それはそれで癪なような気がした。
 だから俺は、そのことをなるべく考えないようにしていた。もう家を出て何年も経つのに、いまさらお袋なんか関係あるかというような気持ちもあった。
 店はその夜、いつにないほど混み合っていた。天気もよかったし、週末だったっていうのもあるだろう。だから、忙しさに紛れて、そんな苛立ちもじきに忘れた。
 ――お先。
 ――おう、お疲れさん。
 バイト先を出た後、その日に限って俺は、自分の部屋ではなく、母親の住むアパートの方に足を向けた。その日、ちょうどバイト代が出たからだ。
 運転免許を取るときに、お袋に立て替えてもらった金を、俺は毎月少しずつ、返していた。
 お袋はそれほど金に困ってはいない。養う口がひとつ減ったいまでは、なおさらだった。実際のところお袋は、それくらいべつに返さなくてもいいと無頓着にいったが、ほとんど意地のようにして、俺はその金を返し続けていた。
 その夜、お袋が帰宅しているか、まだ仕事か、どちらでも不思議ではない時間だったが、電話はかけなかった。いてもいなくても、ろくに出ないからだ。どちらにしても、鍵は持っていたし、何なら郵便受けに金だけ放り込んだってよかった。
 ひと月ぶりに見たボロアパートは、相変わらずとんでもないボロで、そのうち台風でもくれば、あっけなく倒壊するんじゃないかと思った。いい加減、もう少しましな部屋に越せばいいのに、なぜだかお袋は、このアパートにこだわり続けていた。
 階段の下から見上げると、部屋の電気はついていた。そこで一瞬、いつものように躊躇した。じき四十になろうかというのに、お袋はいまでもときどき男を連れ込んでいるようだったからだ。
 ガキじゃあるまいし、男がいたからって何だっていうんだ。そう自分に言い聞かせながら、わざと足音を響かせて、錆を食った階段を上った。
 インターフォンを形ばかり鳴らして、すぐにノブを捻ると、いつもどおり、鍵はかかっていなかった。
 ――お袋?
 呼びかけながら、ドアを開けた。かぎなれた香水と、かすかな酒のにおいが鼻をついた。
 部屋の中にいたのは、お袋だけではなかった。心の準備はしていたつもりが、俺はそこで立ちすくんで、手に持っていた給料袋を取り落とした。
 ――あら、広生。今日、給料日なんだっけ。
 いま思い出したというように、気だるげな調子でそういったお袋は、半裸で、若い男の腕に絡み付いていた。
 高柳だった。
 俺は無言で踵を返すと、何か呼びかけてくるお袋の声を振り払うように、その場から走り去った。

 暗い山道を、どれくらい歩いただろうか。月のない暗闇の中を、時計も携帯電話ももたずにうろつきまわっていれば、時間の感覚なんて、すぐに麻痺してしまう。
 ときどき、どこか茂みの奥から、名前も知らない鳥の声が、闇を切り裂いて響く。ぎちぎちと擦れるようなのは、鳥の声だろうか、それとも虫だろうか。
 もう、視界に入ってくるどの樹も岩も、見覚えがあるように思えてきて、ひっきりなしに藪を掻き分けては、落胆してまた歩いてと、そんなことを繰り返していた。
 この山に踏み入るのは、何度目だろうか。何度やってきても、参道は迷いようのない一本道で、いま立っているこの場所も、過去に通ったことがあるはずなのに、どういうわけか、ときどき、まるで知らない場所のような気がした。
 時代がかった和装の男がひとり、よろめきながら下っていくのとすれ違う。やつれきったその顔の中で、目の下にくっきりと浮かんだ隈だけが、しばらく残像のように印象に残った。
 男の服を、ずいぶん妙な格好だとは思ったが、いまさら驚きもしなかった。ときどきこの道では、やたらに古めかしい格好の連中と行き会う。理屈は分からないが、そういう場所なのだろう。
 それにしても、行き会う連中に、一度でも見覚えがあったためしがなかった。前にも見かけた人間と、二度会うことはなく、いつでも連中は、違う顔ぶれだった。ただひとり、麓の提燈屋を除いては。
 皆、何かに導かれるようにして、探しに来た相手の骨をじきに探りあて、掘り起こしては、それぞれに嘆いている。そして嘆くだけ嘆いたら、どうやらあきらめをつけて、疲れきったように下りていく。
 それなのに、俺だけがいつまでも、何も見つけることができない。
 また提燈の灯がひとつ、行く先にぼうっと浮かび上がった。誰かが下りてくる。
 五十代くらいだろうか、その年代にしては体格のいい男が、手も背広も泥まみれにして、足をひきずりながら下りてきた。その腕の中に、脱いだ上着に包んだ何か――おそらくは骨だろうが、とにかくそいつを抱え込んで、提燈を持ちにくそうにしながら、目をひどく瞬かせている。
 やつれたその面差しを、見るともなしに見ながら、何気なくすれ違おうとしたが、ふと思いついて、足を止めた。
「なあ、オッサン。そのなりからしたら、あんたは見つけきれたんだろう」
 声をかけると、男はそこで歩く気力が尽きはてたというように、がくりと足を止めた。そのまま膝を折って、地面にうずくってしまう。
 男は、自分の手の中の荷物にじっと視線を注いだまま、顔を上げもしない。それでもこちらを無視するつもりもないらしく、唇を引き結んだまま、何度も小さく頷いた。
「なあ、あんたはどうやって、そいつが埋まってる場所を見つけたんだ」
 そいつ、と、男の抱えている上着を指すと、少しの間があった。答える気がないのかと、あきらめかける頃になって、男はぽつりと呟いた。
「わからない。ただ、そこだという気がしたんだ」
 力のない、乾ききったような声だった。
「じゃあ、もしかしたら、誰か、別人の骨かもしれないんだな」
 かすかな希望をこめてそう訊くと、男は激しく首を振った。手の中の包みを、きつく抱きしめて、男は叫ぶ。
「別人なんかじゃない! これは――これは息子だ。私には分かる――」
 言葉は途中から、嗚咽に変わった。別人であればいっそよかったと、男は泣きながら呻いた。何度も何度も、同じことを繰り返して泣いた。
「悪かったよ」
 気まずさをもてあましてそういうと、男は力なく首を横に振って、よろよろと立ち上がった。また危なげな足取りで、麓に下る道を歩き始める。その足音が聞こえなくなるまで、じっと、闇に目を凝らしていた。
 そこだという気がしたんだと、男はいった。
 俺はいままで、ここがそうだという確信を得たことは、一度もなかった。ただ漠然と、見覚えのあるような樹だとか、岩だとか、そういうものを求めて、あてずっぽうに歩き回っているだけだ。
 そもそも、あの山とこの山は、同じものではないのだ。俺が知っているのは、灯篭を目印に入る古めかしい参道ではなくて、ガードレールが整備されて、アスファルトで舗装された道路の通る、あたりまえの山だ。その場所にあったものと似た樹があったところで、何の関係もないのかもしれなかった。
 しばらく立ち尽くしていたが、やがて、風が吹いて樹々が鳴るのに、はっとして顔を上げた。よろける足を踏ん張って、どうにか歩き出す。考えこんだところで、どうせ何の手がかりもない。迷うだけ時間の無駄だ。
 雲はもう切れ間をみせることもなく、行く手は空と地上の区別もつかないほど、何もかもが黒く塗りつぶされている。

 ――話がある。
 バイトのシフトに入っている間、一度も口をきかなかった高柳が、帰り際になって、そんなふうにいい出した。
 ――俺にはねえよ。
 自分で意識したよりもよほど、冷たい口調になった。高柳はしかし、それにあきらめる様子もなく、制服から着替えて家に向かう俺を、足早に追いかけてきた。
 よりによって、閉店までの最終のシフトで、片づけまで終えて外に出たときには、もう午前一時近くだった。
 人通りはほとんどなかった。雨が降っていたらしく、歩道が濡れていて、たまに通りかかる車のヘッドライトが、アスファルトの上に光の筋を作った。
 時間も時間で、電車なんか動いちゃいない。歩道橋をわたった向こうに駐車場を借りていて、安くで買った軽自動車を、いつもそこに停めていた。そこまで行けば、高柳をふりきって帰れると思った。俺のアパートをコイツは知らないし、高柳は徒歩通勤で、足がない。
 バイト中には平静を装っていたが、頭にはかなり血が上っていた。あとほんの少しでも苛立ちが勝てば、なりふり構わず高柳に殴りかかってしまうだろうと、そういう自覚があった。だからこそ、一秒でも早く高柳の顔の見えないところにいきたかった。それでも、全力で走って逃げるにはプライドが勝って、俺は早足で歩道橋を上った。
 ――知らなかったんだ。
 高柳はあとを追いかけてきながら、いつもの淡々とした、言い訳がましいところのひとつもない口調で、そんなふうにいった。
 ――関係ねえよ。
 お袋が誰と寝ようと、俺には関係ない。そういうつもりで吐き捨てて、振りきろうとしたが、高柳はどこまでもついてきた。
 ――悪かった。知っていたら……
 その言葉を聞いた瞬間、堪えそこなった衝動に突き動かされて、高柳の胸倉を掴んでいた。
 ――知ってたら? なんだっていうんだよ、ああ?
 高柳のほうが体格がいい。力だって、俺より強かっただろう。だがあいつは、避けようとも、手を振り払おうともしなかった。
 あとわずかで歩道橋をわたり終えようという、階段の一番上だった。
 直前まで降っていたらしい雨に、足元が濡れていた。
 悲鳴は上がらなかった。
 高柳がバランスを崩して、階段を転がり落ちていく途中の一瞬、見開かれたその目と、視線が合ったような気がした。

 どれだけ歩いても、夜の山道は変わらず黒く塗りつぶされているばかりで、ここがそうだというようなひらめきは、少しも降りてこなかった。
 いったい何が違うのだろうか。すぐに目当ての人間の骨を探し当てては嘆く連中と、俺と。執念の強さか。血縁の有無だろうか。それともまさか、高柳は――
 首を振って、苛立ちまかせに藪の中に分け入った。提燈を下ろして、地面に這いつくばる。どれだけ目を凝らしても、どこにも人の骨も死体も落ちてはいないし、掘り返したような痕跡もない。
 あの夜、階段から落ちた高柳の目は、見開かれたまま、いつまでも何もないところを見つめていた。その首は、おかしな方向に曲がっていた。あれが、何もかも幻覚だったということがあるだろうか? 実はあいつが、死んでいなかったなんて、そんなことが?
 また誰か若い女がひとり、むせび泣きながら山道を下っていくのが、遠くに聞こえた。

 自分がどうやって歩道橋を降りたのか、覚えていない。
 呆然としたまま抱え上げた高柳の体は、まだ体温を残していた。それでも完全に力の抜けてぐにゃりとしたその感触は、ただ意識を失っただけの人間のそれとは、何かが決定的に違っていた。
 とっさに手を引っ込めて、高柳の死体を取り落とした瞬間、腹の底から、震えが立ち上ってきた。
 恐ろしかった。自分のしたことが。いつでも些細なきっかけで自分の内側から沸きあがってくる、抑えようのない衝動が。その凶暴さが。
 その夜、時間も時間で、あたりに人通りはまったくなかった。それでもまばらに通りかかる車のヘッドライトが闇を切り裂いて、やたらとスピードを出したまま、通り過ぎていく。その中の誰かに姿を見られていても、ちっともおかしくはなかったのに、そのことには、少しも頭が回らなかった。
 痺れたような頭が命じるまま、高柳の体を抱え上げて、自分の車に積み込んだ。そのまま、何を考える脳もなく、ひたすらに車を走らせた。
 どれくらいの間、深夜の道を走り続けただろうか。一時間? 二時間? 思い出せない。よく知らない土地の、近くに人家の見当たらない山中で車を止めると、高柳の死体を引き摺って、藪の中に投げ込んだ。そのときには、もうあいつの体はすっかり冷えて、冷たくなっていた。
 埋めて発見を遅らせようだとか、せめて道路からなるべく離れた場所にしようだとか、そういう頭さえ、ちっとも働かなかった。ただ痺れるような恐怖に、そのほかの感情の何もかもが麻痺していた。
 まさか、あの一部始終が、幻覚だったということが、あるだろうか。あれだけのことが、何もかも。
 そんなはずがない。
 できることなら、悪い夢でもみていたんじゃないかと、そう思いたかった。けれど実際に高柳は、あれから姿を現さなかった。
 店長はしばらくの間、ぶつくさとこぼしていた。黙って急にやめていくバイトは、たいして珍しくもない。あいつはそういうタイプのやつには見えなかったんだけどなあと、首を捻っていた店長も、やがて、高柳は何を考えていたかよく分からなかったと言い出して、勝手に納得したようだった。
 バイト仲間も、似たりよったりの反応だった。もしかして、何か事件に巻き込まれたんじゃないかと、冗談交じりにいうやつはいても、本気で心配しているやつも、高柳のアパートを知っているやつもいなかった。
 だが、何の隠蔽工作も図らず、ただ山の、車の走る道のすぐ傍に捨ててきただけの死体が、何か月も経って、いまだに誰にも発見されないなんて、そんなことが、果たしてあるだろうか。
 それでも現に、警察が俺の部屋にやってくることもなければ、身元不明の死体のことがニュースにあがることもなかった。
 今日には発見されるか。それとも明日か。また今日も気づかれなかった。いったいいつになったら見つかるんだ。なぜ見つからない。ひと一人が死んでいるのに、どうして誰も、気づかないんだ。
 日が経つにつれて、不安は増していった。見つからないでくれと祈っていられたのは、最初の何日かの間だけだった。
 半月ほど経ったころだろうか。衝動に突き動かされるようにして、俺は車を走らせた。
 だが、あの夜、混乱したまま運転した知らない道を、俺はどうやっても思い出せなかった。あれは、どこの山中だったのか。標識に注意を払ってもいなかったし、どれほどの距離を走ったのかも、まるでわからない。あの夜、自分がアパートまで戻ってきたのが不思議なほど、いくら記憶をさぐっても、手がかりは思い浮かばなかった。

 もとから漆黒に塗りこめられていた夜の闇が、さらに深くなったような気がして、顔を上げた。夜明けが近いのだろう。
 いつの間にか、あれほど耳についていた鳥の鳴き声は、すっかりと止んでいる。
 この山には、夜の間しかいられない。いつもそうだ。今回だけが例外だとは思えなかった。
 また今日も、見つけきれなかった。
 膝から崩れ落ちるようにして、地面に這いつくばった。立ち上がる気力が、湧いてこない。
「どこにいるんだ」
 呼びかけても、答えは返ってこない。
 この手にまだ、感触が残っている。抱え起こしたときの、ぶらりと垂れ下がった首に引き摺られるような重みが、わずかに垂れた血の、ぬるりとした手触りが。
 階段を落ちたときにひっかけたのだろう、高柳のシャツにできた破れ目から、脇腹のあたりの肌が見えていた。その皮膚のうえに、たったいまできた傷とは明らかに違う、ひどく古そうな、おびただしい火傷のあとが、通り過ぎた車のヘッドライトに一瞬だけ照らしだされた。
 麻痺した頭は、目で見たものの意味をろくに考えようとしなかった。むしろあとになってから、その瞬間に見たものを、何度も繰り返し思い出した。
 家族はいないと、高柳はいっていた。家族がいたほうが幸せとは限らないとも。その言葉と、闇の中に浮かび上がる火傷の痕とが、一緒になって何度も頭の中をぐるぐると回った。
 ひと一人死んで、どうして誰もろくに探そうともしないんだ。八つ当たりのような感情がこみ上げてきて、拳で地面を殴った。砂利が飛び散って、騒々しい音を立てる。
 だって、おかしいだろう。高柳は山奥に篭もって自給自足をしていた世捨て人でもなければ、何十年もホームレスをしていたような爺さんでもない。ほんの少し前まで、毎日真面目にバイトに出て、自炊もして、ときにはバイト先の店長と飲んだりしながら過ごしていた男が、ある日急にいなくなって、それなのにどうして、誰も騒ぎ立てないんだ。
 ここにくるほかの連中は、どいつもこいつも必死で家族だの恋人だのの骨を探しあてて、うっとうしいくらい泣き喚いているっていうのに。
「ちくしょう」
 衝動に突き上げられて、言葉にならない罵声を上げる。どこか近くの樹上から、鳥が慌てたように逃げていくのに、かまわず叫んだ。自分が何をわめいているのか、何に腹を立てているのか、しまいにはわからなくなって、それでもわめき散らし続けた。
 やがて叫び疲れて、ぐったりと顔を上げると、さっきまで真っ暗だった空の端が、ほのかに青みがかっていた。

 目が覚めて真っ先に、窓が開けっ放しになっていたことに気が付いた。空が白んでいる。
 じきに雨になりそうな、湿った風が吹き込んでくる。立ち上がって窓を閉めるとき、近くの家の炊事の匂いが、鼻をくすぐった。その生活感のようなものに、わけもなく、苛立ちを覚える。
 頭が重い。時計を見れば、眠りについてから、まだ三時間とたっていなかった。それでも目は冴えてしまって、寝なおせそうもない。
 なにか、気の滅入る夢を見ていた。それも、何度も見たことのある夢だという気がする。それなのに、具体的な内容はさっぱり思い出せなかった。記憶をさぐりかけたが、悪夢ならわざわざ思い返すこともないだろうと、すぐにやめた。
 床に落ちていたリモコンを拾い、テレビをつけた。ニュースにチャンネルを合わせる。昨日の国会で、どこかの政治家がもらした失言について、耳障りな声のコメンテーターが、品のない笑いを漏らしていた。
 手のひらで脂じみた顔を擦ると、ざらつく鬚と、寝汗が気持ち悪かった。
 ニュースの内容が、地方版に移った。顔を上げて息をつめ、食い入るように見出しを追う。だが、探す言葉はどこにも書かれていなかった。
 チャンネルを変える。ニュースを流している局で手をとめて、テロップを追う。どこのチャンネルにも、山中で身元不明の遺体発見、なんていうような記事は出ていない。
 体の力が抜けた。震える息が、唇から漏れる。
「なんで見つからないんだ……」
 ぐったりとフローリングに横たわると、ざらつく埃が肌に張り付いた。汗に濡れた髪をかきむしって、震える両手で顔を覆うと、目蓋の裏で、闇がちかちかと瞬いた。

 
(終わり)

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