小説トップへ   闇夜にさまようへ




 小糠のような雨がしとどに降りしきり、それが足元の砂利に吸い込まれていくのを、いつしか足を止めて、ぼんやりと見つめていた。
「鬼灯は、お持ちじゃありませんの」
 遠慮がちにかけられた声は、知らない女のもので、その語尾はやや低く掠れて、雨に吸い込まれていくようだった。
「酸漿(ほおずき)?」
 聞き返しながら顔を上げれば、そこに立っていたのは、資料写真の中から抜け出してきたかのような、時代がかった和装の女だった。古風なかたちに結われた黒髪の、わずかにほつれた襟足が、雨に湿って白いうなじに張り付いている。なるほど、女の傘を持つのと逆の手には、大きな鬼灯の実を吊るした棒が握られて、その中に蝋燭だろうか、小さくたよりない灯が揺れている。
「こう暗くちゃ、足元が危ないわ。わたくしのを差し上げます」
「いや、だが、そちらがお困りになるでしょう」
「いいのです。もう、帰るところですから」
 そう微笑んで、小さく首を傾げる女の顔を、あらためてまじまじと見つめると、白い頬には涙の痕が、鬼灯の提燈が放つ淡い明かりに照らされて、浮かび上がっている。
 そうですか、と我ながら間の抜けた相槌を打つのに、女はただ微笑を深め、和傘をわずかに傾けながら、提燈の柄を私に差し出してきた。
 素人目にも、女の着ているものは上等そうに見受けられた。古風な物言いや優雅なしぐさもあいまって、こんな暗い夜道に、一人歩きをするには、女は、似つかわしくないように思われた。けれど詮索するのも気が引けて、結局はただ礼をいい、女の手から提燈を受け取った。
「生憎の天気でしたわね。お気をつけて」
 女は会釈をひとつ残して行き違うと、黒い着物の裾を、夜闇に溶け込ませて去っていった。

 砂利道は細く曲がりくねりながら、山の奥の方へと続いていく。なるほど、女のいっていたのはもっともで、それまでは所々にあった灯籠の明かりもじきに途絶え、押しつぶすような暗闇が迫ってきた。空には生憎、雨雲の向こうに透けて見える月もなく、道の緩急も激しい。提燈なしにはとても歩けなかっただろう。
 しばらく歩く間に、三、四人ほどか、同じ提燈を持って道をいく人影を見かけたが、彼らは急ぎ足に私を追い越していくか、あるいは気の進まない様子で足を引き摺りながら私に追い抜かれていくかで、見知らぬ誰かと話しながら同道しようという者は、誰もいないようだった。しかしそれももっともなことだった。この道の続く先を思えば。
 静かな雨は、傘の皮を柔らかく打ち、木々の梢を撫でては、押し寄せるさざなみのような音を立てる。その儚げな雨音を聞き流しながら、暗い道を歩いていくうちに、ふいに、こんな山奥には似つかわしくない、珈琲の香りが鼻をくすぐったような気がした。

 ――はい、熱いよ。
 そういって孝治から手渡されたカップには、ひどく煮えたぎった珈琲が、なみなみと注がれていた。私が常々、珈琲は濃ければ濃いほどいいと広言していたところ、この弟はどこからか、トルコ式の淹れ方を聞き込んできて、専用の道具まで揃えていたのだった。
 鍋で煮詰めた珈琲の水面は黒々として、こちらの顔をくっきりと映しこんでいる。一口啜ると、普段飲んでいるものと同じ珈琲とは思えない、強烈な苦味が舌をしびれさせた。
 はじめはぎょっとしたものの、恐る恐る啜っているうちに、その苦さが癖になってきた。
 ――なかなか旨いな。またときどき、淹れてくれ。
 読んでいた本から顔を上げてそう呟くと、自分の分をちびちびと舐めていた孝治は、小さく苦笑して、
 ――胃を悪くするよ。
 たいして咎めるふうでもなく、そんなことをいってきたのだった。そうして軽く竦めた肩には、真冬だというのに、ずいぶん薄いシャツを羽織っていた。
 ――お前、まさか大学にも、その格好で行ってきたのか。
 ――え? ああ、ちょっと薄着だったかな。
 そういう弟だった。暑さ寒さにも関心が薄く、何を好きとも嫌いともいわない。兄貴が珈琲が好きだからといってはそれを買ってきて、お前、本当は紅茶が好きなんだろうというと、そうかなと首を傾げ、とぼけているふうでもなく、自分の好きなものもよく分からないような顔をする。母親が、夜も更けてからきゅうに魚が食べたいなどというような電話をよこせば、いわれたとおりの料理を拵えて帰りを待ち、水商売で帰宅の遅い母親に、文句のひとつもいったことがなかった。
 ――風邪を引くぞ。
 ――うん、そうだね。ありがとう。何か着てくるよ。
 孝治は素直にうなずいて、着替えを取りに、自分の部屋に向かった。だが、それはただ、私と言い争うのを避けているだけで、いわれたとおりに自分の体を気遣うつもりなど、この弟には、毛頭ないのだ。苦い思いを覚えて、私は一人になった部屋で、渋面になった。
 しかし思えば昔から、いつだってあの弟はそうだったのだ。あいつの口からまともな反論を聞いたことなど、ただの一度も記憶になかった。
 二人ともがまだ子どもだった頃、私たちの父親、とっくに離婚していまはどこでどうしているともしれない男が、ときおり酔って帰ってきて、土産と称した食い物や玩具を差し出すと、私は真っ先に孝治の手を引き、お前、どっちがいいんだと、そう訊くのが習慣になっていた。孝治の答えはいつも決まっている。兄貴、好きなほう選んでいいよ。
 いいからお前が先に選べと、私は怒りながらいう。孝治はそれじゃあと、少し考え込んで、遠慮がちに片方を指差す。それはいつも決まって、私のほしいと思うのとは逆の方だ。
 私が本当はどちらがほしいのだと、態度に出さないつもりでいても、孝治はどうやって察しをつけていたものか、必ずその逆を選び取るのだった。
 互いが大きくなって、酔って気まぐれにささやかな土産を買ってくるのが母親になっても、その習慣は変わらなかった。

 はっと、物思いから醒めると、目の前で甚平姿の老人がひとり、砂利道にうずくまっていた。傘も鬼灯も放り出して、雨に濡れるがままになっている。
「大丈夫ですか」
 声をかけたが、老人はこちらを振り向きもせず、ただ紺色の甚平に包まれた肩を、細かく震わせている。泣いているのだ。遅れて、雨に溶け残った嗚咽が耳を打った。
 かける言葉も見つからず、しばらくそこで、老人に傘を差しかけたまま、立ち尽くしていた。傘の先で、細かな雨粒が鬼灯の光をちらちらと弾く。雨は強まることも、小降りになることもなく、ただ世界の始まりから変わらずそういうものだというように、木々の梢を撫で、砂利に沁み続けていく。
 どれほどの時間が経っただろうか。やがて老人の嗚咽がやまり、のろのろと腰を上げるのに、拾った提燈を持たせてやると、その年代にしては体格のいい老人は、背筋を伸ばして頭を下げてきた。
「有難う。……そちらはどなたか、若い人が?」
 何か分かるのだろうか、核心をついた問いに意表をつかれつつ、正直に頷くと、老人は呻き、深い息を吐き出した。体の底の底から湧き出てくるような息だった。
「そちらは」
 訊くのが礼儀のような気がして、気が進まないながらもそう問うと、老人はその骨ばった指で顔を擦って、枯れたような声を振り絞った。
「息子が」
 思わず胸が詰まる。けれど口では「そうですか」としかいえなかった。我ながら、あまりに間の抜けた相槌だったが、老人はかすかに頷き返しただけで、気を悪くしたようすはなかった。その心境は、多少なりと分かるような気がした。どちらにせよ、適切な言葉などありはしないのだ。
 頭を下げて、老人は踵を返した。よろめきながら引き返していく背中を、しばし立ちすくんだまま見送って、やがてその姿が見えなくなると、老人のうずくまっていた脇の藪に目をやった。低木の葉の茂る先を見通すように、じっと見つめても、吸い込まれるような暗闇のほかに、何も見て取れはしなかった。
 気を取り直して、砂利を踏む。往く先の道は暗く、鬼灯のぼんやりとした灯りの先には、ひたすらに塗りつぶされたような漆黒の闇が続いている。
 また歩きだしながら、先ほどの和装の女が誰に似ていたのか、そんなことを思い出そうとしていた。しばらく考え込んで、ようやく気づいた。いつか弟が付き合っていた女の一人に、少しばかり、面差しが似ていたのだった。

 ――なあ、お前、本気で好きな女はいないのか。
 そう訊いたとき、孝治は首を傾げて、自分の胸の中から答えを引き出そうと、考え込む様子を見せた。けれど少しの沈黙の後、寂しそうに微笑んで、それを答えに代えたようだった。見慣れた表情だ。私は思わず嘆息を落としたが、しかし、訊く前から私は、答えを知っていたように思う。
 そうした寂しげな表情が、母性本能でもくすぐるのか、孝治はよく年上の女にもてた。気づけばよく前とは違う女と、腕など組んで道を歩いていて、それで節操がないのかというと、いつも孝治のほうが、すぐに振られているのだった。
 この弟も、そうしたことがあるたびに、まるで傷ついていないわけでは、ないのだと思う。それでも孝治が何かをひどく嘆いたり、耐え難いようすを見せたところには、記憶にあるかぎりでは、行き会ったことがなかった。子どもの頃からずっと一緒に暮らしてきたにもかかわらず、ただの一度も。
 そのことを常々心配はしていても、いいかげんにいい歳をした弟の男女関係にまで、いまさら細かく嘴を挟む気はなかった。それでもつい口からこぼれた問いに、苛立ちの気配は滲んでいたのだろう、孝治はどこかすまなさそうに、肩を縮めた。
 ――仕方ない。俺は、こうだから。
 ――どうだっていうんだ。
 思わず口から出た怒声に、孝治はふと笑った。
 ――兄貴は、いつも人のために怒る。
 その言葉に意表をつかれて、私はとっさに口ごもった。
 ――お前は、少しくらい、自分のために怒れ。
 むすりとしていうと、孝治はいつものように、頷くでも否定するでもなく、曖昧な微笑を返事がわりにした。諦めきったような、それでも寂しさを拭い去りきれないような、いつ見ても少しも色の変わらない笑みだった。

 深い暗闇の中を独りで歩いていると、時間も距離も感覚を失い、もう何日も歩き続けているような、それとも女に鬼灯をもらってからほんの五分も歩かないような、奇妙な感覚にとらわれた。
 それでも堂々巡りをしているわけではないのは、見れば分かった。時おり闇の切れ目にのぞく樹木の様子が、道のはじめのあたりとは違う。もうずいぶん上ってきたのだろう。注意深く感覚を研ぎ澄ませば、肌を刺す空気の冷たさも、鋭くなっているのが分かる。
 少し坂のゆるやかになったあたりで、ここだと、降ってくるようにそう思った。何のきっかけがあったわけでもない。けれど、確信があった。
 それでもしばらくの間、ためらっていた。どれくらいの時間だっただろうか、しばし立ち尽くしたあと、鬼灯の提燈を闇にかざすと、中の炎が揺れて、藪の一点を指した。
 私は無言で提燈と傘を地面に置き、素手で藪を掻き分けた。足元に這いつくばって、地面を探る。濡れた土が、爪に入り込む。何かの虫が這って逃げていく気配があった。
 誰かが私の背後を通り過ぎて、さらに先に進んでいく足音があった。ためらいがちな、迷うような足取り。その気持ちは痛いほど分かった。確かめるのが怖いのだ。
 けれど何かに操られるように、私は黙々と土を掘った。草の根を千切り、小石を除ける。雨の沁みた土は、冷たかった。

 急に孝治がいなくなったのは、秋口のことだった。
 あの弟が、伝言も連絡もなしに姿を見せなくなるとは思えなかった。けれどその一方で、いつかこういう日がくることを、胸のどこかで予感していた自分にも、気がついていた。
 孝治が何かをほのめかしていたわけではない。誰かに心配をかけることを、そうそう口に出す弟ではなかった。それにもかかわらず、ある日孝治がふといなくなる、そういう場面を、私はいつからか、ずっと心のどこかに描いていた。そんな気がする。
 自分からは何も求めず、ひとに何かを与えられればすまなさそうな顔になり、何があっても誰のことも責めようとはしない、そういう孝治の性格を、優しさや無欲さだと、稀有な美徳だといって、誉めて済ませるのならば、それはおそらく、簡単な話だった。けれど私には、そういう孝治の姿勢が、やるせなかった。まるで、間違えてこの世に生を享けてしまったので、なるべく誰にも迷惑をかけないように、死ぬまでひっそりと息をしていようと、そういう態度に見えて、いつでもそれが、堪らなかった。
 母にも何かしらの予感があったのだろう。学生とはいえ成人した男が、家に連絡を寄越さないからといって、一般的には非常識なほど早いうちから、母は捜索願を出した。当然ながら、警察の動きは鈍かった。
 何の手がかりも、連絡もないまま、季節がひとつめぐるころだった。孝治と付き合っていたという女が、蒼白な顔をして、家を訪ねてきたのは。

 土を掻き分ける指が、何か、石とは違う硬いものに触れた。手のひらに握れるほどの細長いそれを、恐る恐る拾い上げて、提燈のところまで戻る。土にまみれたそれを、降りしきる雨で少しずつ、少しずつ洗った。そうしながら、自分の手が細かく震えるのが分かった。
 土がぬぐわれきってしまうと、それはひどく軽く、提燈の灯りを、目に痛いほど白く弾いた。
 人の腕の骨に見えた。
 のろのろと藪の中に引き返すと、私は、ほかの骨を捜すべく、さらに奥の土を掻き分けた。誰か別の人間であってほしいと、むなしい願いを口の中に呟きながら、けれど胸の底には、もう確信があった。
 自分の頬をぬらしているのが、雨ばかりではないことに、他人事のように気づいたのは、頭蓋骨を掘り当てたあたりだった。

 ドライブの途中だったと、その女は切り出した。
 山中で、休憩のために車を止めて話していて、口論になった。いや、口論というよりも、自分が一方的に腹を立てて、孝治に食って掛かった。感情任せに別れ話を切り出したのは自分のほうだった。だけど、そう、といって頷いただけで、少しも感情を波立たせない孝治の顔を見ているうちに、頭が真っ白になった。
 その女はぶるぶると手を震えさせながら、声だけは変に冷静な調子で、そんなようなことを語った。
 ――ダカラ、ハネタンデス。
 女がそういったとき、言葉の意味がとっさに頭にしみこんでこなかった。
 ――車で、撥ねたんです。でも即死じゃなかった。
 孝治は倒れ付していた路面から、よろよろと起き上がると、なぜか女に微笑みかけたのだという。それからガードレールを乗り越え、藪を掻き分けて、足を引き摺りながら、山の中に入っていった。がさがさと藪の鳴るのが遠ざかっていくのを聞きながら、女は車の中から出られなかった。
 女はやけに冷静な口調と、少しも冷静ではない異常な早口で、そのときのようすをまくしたてた。
 怖くて、あとを追いかけることができなかった。血はひどく出ていたが、そのあとですぐに雨が降ったので、路面に血のあとは残らなかったのではないかと思う。車は木にぶつけたといって、すぐ修理に出した。誰にもいえなかった。なぜあのとき孝治が笑ったのか、どうしてあんなふうに姿を消したのか、いくら考えても分からなくて、怖くて怖くて、とうとう黙っていられなくなった。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……凍りついた表情と声のまま、壊れたテープレコーダーのように、二倍速ほどの速さで、女は延々と謝り続けた。
 その話を聞いている間、私の脳裏には、弟の、見慣れた表情があった。あの何かを諦めきった、すまなさそうな微笑が。
 警察に連絡して、女のいう山中を捜索してもらったが、遺体は見つからなかった。
 ――死んでるところを見ないと、実感なんて、湧かないものね。
 涙の気配もなく実の母親が呟くのを、冷たいといって責めるべきだったのかもしれない。だが正直なところ、半分は同感だった。何もかも何かの間違いで、どこかからいつものように、ひょいと弟が姿を見せるのではないかと、そういう気がしているのだ。いつか孝治がとつぜん姿を消すのではないかと、前から予感を持っていたといいながら、矛盾しているようだが、どうしようもなく、いつまでもそんな気がしてしまうのだった。
 だから私はいま、ここにいる。冷たい雨の降りしきる夜の山で、藪を掻き分けて、骨を拾い集めているのだ。

 人ひとりぶんの骨だろうと思うような量をかき集めて、道のところまで戻ると、そのばらばらの人骨の山の中に、見覚えのあるストラップが絡まっているのが見えた。雨の冷たさに痺れたおぼつかない指で、拾い上げて泥をぬぐうと、それはいつか酔った母親が、露店で買ってきたといって、私たち二人に与えたものだった。

 目が覚めると、明け方だった。静まりかえった家の中に、カーテン越しの、紫がかった淡い光が射し込んでいる。
 夢の記憶は恐ろしいほど鮮明だった。砂利を踏む足音も、提燈の淡い光も、こまかな雨が頬を撫ぜる感覚も、目覚めとともに霧散しはしなかった。私は寝床の中で、爪の中に詰まった土の感触を、軽い骨の手触りを反芻しながら、何度か指を開閉したけれど、当然ながら、手が土に汚れているはずはなかった。
 目蓋を閉じると、その裏の闇に、さっきまで足を踏み入れていた暗い夜の山が、鮮やかに浮かび上がった。
 何もかもが夢だったらよかった。けれどそうではないことを、私は知っていた。普段は迷信ぶかい方ではないし、何の根拠があるわけでもない。けれど、確信はあった。
 時計を見ると、ようやく午前五時を回ったところだった。まだ時間が早い。昼ごろになったら、母に電話しようと思った。
 夜半に降っていた雨は、すっかり上がったようだ。起き上がって、窓を開ける。湿り気のある風が吹き込んで、部屋の中の淀んだ空気をさらっていった。
 
(終わり)
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