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 悲しい、悲しいと女が云うので、何がそう悲しいのだと問うと、何もかもが悲しいのだと、涙ながらに訴える。其れ程迄に悲しいと云うのならば、如何して生きて居るのかと訊くと、此れ程悲しいのに死に切れぬ、此の身の浅ましさが余計に悲しいのだと、其の様な事を云っては又泣く。
 呆れ返って「自ら命を絶てぬと云うのならば、己が殺してやろうか」と訊くと、女は涙に濡れそぼった黒い目を瞬かせて、じっと此方の貌を見た。その睫毛から涙の一粒が零れ落ちるのに、何とは無しに気を取られて居ると、女は暫らく黙って居たが、やがて紅を注した唇を薄く開いて、「貴方も悲しいのですね」なぞと頓狂な事を云う。
「何の、悲しいものか。お前の鬱陶しいのに腹立ちこそするが」
 そう云い捨てると、女は頭を振って「御自分で気付いておられないので御座いましょう」と呟いた。
 其の訳知り顔が何とは無しに面白く無い様な気がして、「己が何に気付いておらぬと云うのだ」と問えば、女は俯いて、「眼が悲しんでおられます」と、また戯れ言を云う。
「ふん。何を悲しむ事が在ると云うのだ」
 そう鼻で嗤えば、「私ごときに知る由も御座いませぬが」と眼を伏せて、また涙を零した。
 女が余りにも泣き止まぬので、閉口して「泣いてばかり居る女は、好かん」と云ってみたが、女は口を噤んで何も答えず、意固地なことに、涙を引っ込める様な気配はちらとも見せぬ。
 初めて寄った娼館で、ほんの気紛れに買い上げて連れ帰ってきただけの女ではあったが、泣き続けるものを強引に組み敷くのも面白く無いと云う気がしたものだから、仕方無く「どうすれば泣き止むのだ」と訊くと、女は暫く黙った後に、「では、笑って下さりませぬか」と、此れまた妙な事を云い出した。
 己が笑って何が面白いのかと呆れながらも、其れ位の事で泣き止むならばと、試しに笑って見ようとしたが、頬が引き攣るばかりで、どうも巧く笑みにならぬ。人と云うものはどうやら、長く顰め面で過ごせば、やがて笑い方も忘れるものらしい。「いかぬ。大体、可笑しくも無いのに笑えようか」と顔を顰めてみた処、女は未だ涙に濡れる瞳を瞬いて、「では抱き締めて下さりませ」と云う。
 たかが女一人に、実に馬鹿馬鹿しい事だと思いはしたものの、何時までもさめざめと泣くのを見ていると、何とは無しに哀れな様な気もして、女の袖を引き、抱き寄せて背を撫でてみた。女は其れに不満を云うでも無く、だからと云って嬉しそうな顔をするでも無く、只じっとして居たが、やがてああ、と深く深く息を吐いて、煙の様に掻き消えて仕舞った。
 あまりの事に呆然として、何も残っては居ない手の中を見つめても、女が其処に居た事を示す様な痕跡は何一つ無く、よくよく見れば、女がつい先程迄座って居た筈の敷布の上には、皺一つ寄っておらぬのだった。
 やがて我に返り、さて、幽霊の娼妓を売り付けた娼館の主にどう苦情を云ってやろうかと一度は思ったものの、悲しい悲しいと喧しい口を漸く噤んだ女の、満足した様な吐息を耳に思い出すと、何とは無しに苦情を云いに駆け込むのも馬鹿らしく為って、其れきり放って置いた。
 左様にして暫らく忘れ去って居たのだが、其の一件から一年ほどが経った頃であろうか、ふと女を買った娼館の傍を通り掛かり、立ち寄って文句の一つも云ってみようかと足を延ばすと、其処には娼館どころか、只丈の高い雑草ばかりが生い茂る更地であった。
 道行く男を掴まえて訊けば、其処には娼館など昔から在りはせぬと、妙な顔をするばかり。さて、娼館がそも存在せぬものだったと云う為らば、己が支払った金は一体何処へ行ったものかと、其の事に思い至ると、やけに可笑しい様な気がして、暫らく振りについ声を出して笑って仕舞った。
 訳の分からぬ様子の通行人が、頭のおかしい者を見る様な目をして去って行くのを見送る内に、不意に一筋吹き付ける風があって、その音が何処と無く、女の残した溜め息を思い起こさせた。


(終わり)
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